本日の一枚-BENI COVERS:3-
- 2014/01/20 21:37
- Category: 音楽
- Tag: J-Pop BENI
BENIのCOVERシリーズの第三弾。コレ、かなりイイ・・・
Dr.Luke的日々のココロ
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本日はどこぞで主にある素晴らしい交わりが実現したようだ。私もお誘いをいただき、メールに流れている解放感と喜びの霊を感じることができた。仕事で参加は相成らなかったが、霊は共にいてその交わりに与ることができた。次回、よろしく!
私たちの交わりは御父と御子の交わり、それが二人または三人がイエスの名の中に集まるとき、互いの霊において共有されるとき、それがエクレシアの表現なのだ。
わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。-1John 1:3-4
ニッポンキリスト教のある種の人々にあっては、正統な礼拝とは午前10時からのものだけとか主張される向きもあるようだが、実に愚かなもの、笑い話だ。主はこう言われたであろう:
あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。-John 4:21-24
礼拝の場は私たちの霊にある(→至聖所について)。私たち自身が神殿であり神の宮なのだ。道元が仏道とは生活の雑事そのものであると言ったように、礼拝は「今、ここ」にあるものなのだ。正統な主日礼拝とか、儀式や伝統、教団や教派のフレームを取っ払えば、おそらく御霊の自由な流れが起きる。リバイバルとは特定の場所に人々を集めることではない。この霊の流れに浸り、それを楽しむこと。
繰り返すがイエスが地上におられたとき、もっともイエスに対立したのはユダヤ教だった。現在、霊にあるキリストの働きを阻害するものはキリスト教。これがイエスの名を用いて*1、この霊の流れを妨げているのだ。イエスはキリスト教の教祖でもなければ、キリスト教を興したのでもない。ご自身のいのちを分け与えて下さる方なのだ*2
わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。-John 10:10
*1:というか、イエスの名を用いない傾向が生まれている。ニッポンキリスト教では、「かみっさまわ~」とやるケースが多いのだ。
*2:つまらん神学理論とか論争にはまっている人々は、ぜひ今週のニーの黙想も参照されたい。