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信仰の由来

年老いたアブラハムとサラは神から子供ができると聞かされたとき、共に笑った(Gen 17:17;18:12)。彼らの魂の思い(mind)はその告知を受け入れることができなかった。なぜ?地的な常識あるいは知識に反するから。しかるに、へブル書にはこうある:

信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。-Heb 11:11

ここでポイントは、神の言葉(レーマ)を聞くとき、思いは必ずしもその内容を納得することはないのだ。「はあっ?」という反応がほとんどであろう。それはぶっ飛んでいるから。が、信仰はそこにあるようになる。なぜなら、神が語ったから。神が「光よ、あれ」と語ると、光があったのだ。それは私たちが納得するとか、私たちが改めて信じるとかの問題ではない。この点、使徒行伝で、ペテロとヨハネが美しの門にいた足萎えを癒したとき、こう証している:

ペテロはこれを見て、人々にむかって言った、「イスラエルの人たちよ、なぜこの事を不思議に思うのか。また、わたしたちが自分の力や信心*1で、あの人を歩かせたかのように、なぜわたしたちを見つめているのか。-Acts 3:12

つまり、その癒しは彼らの何かによるものではないというわけだ。信仰は聞くことから、聞くことは神の言葉(レーマ)によるとロマ書はいう(Rom 10:17)。この部分を、聞いてから何か信仰を「生み出す」と解する向きがあるが、これは意訳の結果だ。原語では

αρα η πιστις εξ ακοης η δε ακοη δια ρηματος θεου

「よって その信仰 から 聞く その また 聞く 経由 レーマ 神の」となる。サラの場合も「聞く即信仰」だったのだ。私たちの思いがどうのこうのは関係ない。神の声を一旦聞けば、それはどうあがいても否定しようがない。あとはそれに従うだけ。するとその実体が現出するのだ。

問題は思いがトランスフォームされていないと*2、御言葉自体もスルーしてしまうし*3、神に聞く姿勢も起きない。さらに思いが聞いたことばをあえて拒絶するならば、もちろん従うこともない。ゆえに実を得ることはできない。あるいは思いが自分のことや何か特定のことでイッパイ・イッパイの場合、霊は抑圧され、聖霊の働く余地がない。感情も同じだ。そこで一度、魂が死ぬ*4必要があるのだ。

*1:この原語は"eusebeia"、ふつう「敬虔」と訳されている(1Tim 3:16)。
*2:しばしばレーマを得てからその現出までにタイムラグがある場合が多い。この間に私たちの思いは揺れる。自分の聞いたことが勘違いだったのではとか、思い込みだったのかとか。あるいはある種の待ち時間が必要となるのだ。私たちの魂は待つことが苦手なのだ。
*3:最近、スルーしていた御言葉が次々に出現している。
*4先に述べたように、魂の諸機能が機能停止することではない。凝り固まった魂のエネルギーが一度抜かれるとでもいうべき状態に入る事。これは十字架の働きによる。

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