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日々キリストにありて

ファイル 4733-2.jpg


ニール・アンダーソンによる黙想


 あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ。」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます(詩篇27:8)。

 「朝、太陽が照っていたら、私はします」。
 「ドアが開かれるならば、それをなすのが私であると分かるのですが」。
 「世界宣教のクラスに合格するならば、私は宣教師になります。そうでなければ、一地域の牧師でいいです」。
 私たちは自分がこのような姿勢よりはましと思っていますが、いざとなると頭に浮かぶことがこれと同じ状況であることに驚くのです。このような前提主義は、主の前に「毛皮を置き、しるしを求める」ことです。
 毛皮はギデオンの物語に由来します。士師期6章において、ギデオンはイスラエルをミデアン人から解放するために神に召されます。ギデオンは神がイスラエルと共にあることを疑い(13節)、自分自身の能力を疑い(15節)ました。そこで彼は神にしるしを求めたのです(17節)。神は彼にひとつのしるしを与え、バアルの祭壇を打ち壊すように語りました。彼は昼間は恐れていたので、夜、出かけました。
 そして、さらに彼は神がイスラエルを解放することに疑問を持ちました。この時は、小羊の毛皮を地面に置きました。もし神がイスラエルを解放するならば、朝、毛皮を湿らせ、地面は乾いたままにすることを求めました。よく朝、そのとおりになりました。これで彼は納得したでしょうか?違いました!さらに確証を求めて、また神が怒らないことを願いつつ、ギデオンは神に再度、逆の結果となることを求めました(すなわち、毛皮を乾かし、地面を湿らせる)。英雄としては相応しくないでしょうが。しかし、神はギデオンの求めに応えられ、ギデオンの軍隊を300人に減少しました!
 ここの物語の要点は、神ご自身が、人ではなく、解放者であることです。神は必死で確証を求める人物を選ばれ、その軍隊を縮小し、勝利はご自分のものであることを示されたのです。毛皮は信仰のデモンストレーションの手段ではありませんでした。それはむしろ逆です。またそれによって神の御心を動かしたのでもありません。神はすでにギデオンになすべきことを告げておられました。ギデオンは神の完全さに疑問を呈しました。ちょうど私たちも神の御旨が明らかなのに、毛皮を求めると同様です。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています」(マタイ12:39)。神の民として、私たちは神のみ顔を求めしょう。

 主よ、時に私たちはみ顔を求めるのでなく、しるしを求めることを赦してください。私は今日、あなたの御言葉に啓示された信仰の内を歩むことができますように。

魂の救いと健やかさ

イエスは日々十字架を負い、自分を捨て、魂のいのちを否めと言われた(Luke 9:23-24)。何度もここで書いているが、それは魂の機能である、知性・感情・意志の活動を停止し、私の意識が消失することではない*1。それはナンセンス。しかし、こう勝手に解釈して、自分が死なない、死のうとするとますます生きてしまうと葛藤し、自作自演的にクルシチャン化する者がいる。霊から独立して機能する魂を否めと言うことであり、私たちの魂はキリストに依存するとき、ますます栄えるのだ。

生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子の信仰によるものです。-Gal 2:20

パウロは明確に、生きているのは私ではないとしつつ、肉において私が生きていると証ししている。キリストの信仰に頼るとき、私は生きるのだ。この二つの「私」の間には十字架の死と復活がある。だからヨハネはこう祈っている:

愛する者よ、あなたの魂が栄えているように、あなたがすべての面で栄え健康であるようにと祈っています。-3John 1:2

邦訳では「恵まれて」となっているが、ヘブル語は"euodoō(栄える)"だ。人類はいのちの木の実を取り損なった。その実体はキリストご自身。その方の信仰によって生きるとき、

待ち続けるだけでは心が病む。かなえられた望みは命の木。・・・願望がかなえられれば魂は快い。愚か者は悪を避けることをいとう。-Prov 13:12;19

かなえられた願いはいのちの木、すなわち信仰の実の一要素である喜びを生む。イエスご自身がこう約束されている:

あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。・・・これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。-John 15:7-11

ハレルヤ!キリスト信仰によって生きる魂はますます栄え、神の国を表現するのだ。その霊に満たされた魂が語り出す言葉は、霊であり、いのちである(John 6:63)。ゆえにパウロはこう勧めている:

そして思いの霊において新しくされなさい-Eph 4:23*2

はっ?思い(mind)は魂の機能では?確かにそうだが、ここの思いには霊が浸透しているのだ。これがトランスフォームされた思い(Rom 12:2)。私たちの魂、特に思いはもはや霊から独立して勝手に彷徨うことはない*3。それは霊と御言葉にしっかりと根付いている:

だから、あらゆる汚れやすべての悪から離れ去り、移植された御言葉(logos)を素直に受け入れなさい。それは、あなたがたの魂を救うことができます。-James 1:21

魂が栄え、すべてにおいて健全であること。これはまず思いのトランスフォーメーションから始まる。思いが霊と真理に基づいているならば、感情は安定し、健やかかつ豊かであり*4、意志もそれによって言動を決める。こうして私たちは神の国のポータル(門)として、地上に神の国を現出させるのだ。ゆえにハデスの門もエクレシアに打ち勝つことはできない(Matt 16:18)。ますます大胆にイエスの名によって求め、願いをかなえていただこうではないか

*1:こういった状態を「悟り」とか勘違いする向きがあるようだが、それは宗教。
*2:邦訳では「心の底から」とか意味不明の訳になっているので注意。
*3:思い煩い、後悔、自責感、抑うつ、焦りなどは彷徨う思いの兆候だ。もちろん敵の放つ火矢もある。
*4:イエスが笑ったかとか議論する人々がいる。イエスは実に感情豊かだった。人前でもよく泣いた。しかめっ面と信仰は反比例するのだ。あと、目が笑っていない牧師の笑顔とも・・・

富士山の異変

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昨日、兄たちと食事会を持ったが、その際の会話。彼らはすでに30回以上富士山に登っているが、昨年の9月、宝永山の少し上に巨大な陥没穴があることを発見した。現地の人に言わせると、雪解けの後にその穴が開いていたとのこと。ロープで囲ってあったが、あんな穴はこれまでに見たことがないと、彼らも。どうも富士山に何かの異変が起きていることは事実のようだ。

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