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トップ > 2015年02月04日

Dr.Lukeが語っていることは

最近、ちょっとやばくない?と思われている部分が相当にあろうかと思っている次第。自分で語りつつ、これは妄想か、偽りか、それともリアルか、とつねに自問自答しつつ、かつ聖書に照合しているのだ。12月に主に仁王立ちされて迫られた結果、以前のように軽くスルーができなくなり、どうしても白黒決着をつけるべきところに追い詰められているわけ。ちょうど、ヨブが

男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。-Job 38:3;40:7

と二度までも迫られたように・・・。リアリティとはどこにあるのか?この信仰の根源的問題が問われているのだ。

信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉(レーマ)によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。-Heb 11:3

モーセの失敗-マインドの慣性

先にDr.Kさんが従順とは傾聴であると指摘された。信仰は聞くことから、それは神のレーマであり、神のレーマには不可能はない。このレーマは一回性のものだ。聖書に深く精通し、霊的経験が豊富であることも時に罠になる。一回性のレーマを聞き逃す、あるいは聞けない、あるいは聞いても従わないとすべてがアウト。その例がモーセだった。神と顔と顔を合わせて会話する彼が、岩に命じよという神の言葉を聞きそびれたか、聞いても従わなかったのか*1、とにかく彼は岩を打ってしまったのだ(Num 20:7-11)。それでも水はほとばしり出たが、その不従順のゆえ、モーセは良き地には入れなかった。

ファイル 4725-1.jpg

理由は、以前の岩を打つ奇跡の経験が彼の思い(mind)にコンフォーム(形成)されていたからだ。彼は思いを新たにすることに失敗した。われわれの魂(知性・感情・意志)には慣性がある。ある一定の方向に向かうと方向転換が難しくなるのだ。そのコンフォームされたフレームからはみ出る事象などには必ず抵抗感を覚える。現代でも死人が蘇る!?そんなのは古代の夢物語だろうとか*2。あるいはイエスのなした奇跡はすべて何らかの霊的真理を教えるための喩えであるとか・・・。これがニンゲンのマインド・オヴァー・ゴッドだ。

肉の思いは神に敵対する。-Rom 8:7

自己弁護や、聖書解釈、霊的意味付けなどで主イエスの業をニンゲンのマインドに合わせることは大きな損失。聖書の言葉はそのまま受け取るに値するものだから。

聖書はすべて、神の霊感によるもの・・・-2Tim 3:16

神の霊感とは"theopneustos=thoes(神)+pneo(息吹き)"。そして神は今もレーマを語られる。レーマを聞くと、とにかく分かる。I know that I know !しかもそれはしばしば私のマインドを超え、逸脱し、あり得ないのだ。霊と魂の分離が起こる。この状態は受胎告知を受けたマリアのようにけっこう自分にとっては困惑あるいは不安を生む。なぜか、これまでのマインドのパラダイムから外れているから。かくしてイエスが行かれたところ、語られるところ、御業をなされるところには、必ず大きな困惑と混乱と意見の対立が生じるのだ。エクレシアが真に神の国の出先機関として機能し出したら、これは世をこのように引っ掻き回すだろう。が、それが終末の福音のあり方である。

*1:頑なな民に対して怒りを爆発させたためではあるが、それだけならばイエスも不信仰な弟子たちに怒っていることでは同じだ。
*2:マタイ10章(Matt 10:7-8)の命令はオリジナルな十二弟子限定であるとする人々がいる。が、マタイ28章にはこうあるのだ。

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。-Matt 28:18-20

ニッポンが救われる道

ユダヤ人と日本人が精神病理的に似ていることはすでに指摘している。一言で言えば、プライドが高く、知的、イエスに対しては頑な。彼らの心を神に転機させるにはそれを刺し、砕き、すべての思考・高ぶり・はかりごとをキリストに服させること(2Cor 10:4-5)。お体裁の「気軽に教会へどうぞ」的スタンスではキリスト教徒は増やせても、霊の再生されたエクレシアの肢体は無理だ。まことに使徒行伝の様がそのままに再現される必要がある*1。コメントでも何度も書いたが*2、切除された乳房が再生され、骨折した腕の骨の金属が骨に変えられ、死人が起こされて、神のデュナミスが証しされるまでに。私の葛藤や、私の何とかを何とかしてくれ的スタンスを卒業する時なのだ。祈るときは「私にあって神の国が現出しますように!」と。アイ・マイ・ミー的スタンスからキングダム・スタンスへ。

人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。
そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」-Acts 2:37-39

*1:これは特別の器によってなされたのでははなかった。すべての信者に開かれている。問題は私たちが受け取るかどうか。それは神の国の能力だから。自分がどうのこうのではなく、単純に受け取るだけなのだ。が、これがなかなかできない。あれこれ理由をつけて・・・。ゆえに思いのトランスフォーメーションが必要なのだ。
*2:これらの証がすでになされているのだ!

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