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日々キリストにありて

ファイル 4761-1.jpg


ニール・アンダーソンによる黙想


 もし子があなたがたを自由にするのであれば、あなたがたは本当に自由となるのである(ヨハネ8:36)。

 信者の人生における束縛と自由のコントラストは、次のうまくいった相談者の男性からの手紙にきれいに描かれている。

 親愛なるニール
私の情緒的な問題はおそらく子供の頃に経験したホラー映画やオイジャ・ボードなどに起因していると思えます。映画「ドラキュラの血」を観た後、悪魔的力が襲ってきたことを覚えています。
私の父は癇癪持ちで、時に怒りを爆発させていました。私はその状況を生き延びるために、彼を怒らせたことの責任が自分にあると自分を責めていました。自分の気持ちを押し込めている状態が私の生き方になりました。大人になってからもすべてにおいて自分を責め、自分の欠点や不運を嘆きました。
 そしてキリストを私の個人的な主また救い主として受け入れました。私はその後の数年間は霊的に成長しましたが、完全なる平安を味わうことはなかったのです。常に神との関係に疑惑がまとわりついて、神が何か遠くて厳格な存在としてしか感じられなかったのです。祈りにも、聖書を読むにも、牧師のメッセージに注意を傾けるにも抵抗がありました。人生の目的について深刻な疑問があったのです。夜、叫んで目覚めるような悪夢を経験したりもしました。
あなたと一緒に祈った時に、私はようやくキリストにある自由を見出しました。今、聖書を読むとき、前とは違って理解することができます。より積極的な態度を築け、主との関係も完全に変わりました。それ以来、悪夢を見ることもありません。

 私はすべての霊的問題が悪霊の直接的働きによるとは言いません。しかし、あなたは世に働いている悪霊の力を軽視したり否定しているために束縛されているのかもしれません。キリストにあるあなたの嗣業は、御言葉に約束されている完全なる自由の基礎なのです。

 霊的ダチョウにならないように、敵の策略とあなたの真理に注意を払うように、今日、助けてください。

おことわり

本日のセレブのLIVEはきわめてプライベートなミニストリーの性質のため、公開は控えます。よろしくご了承ください。

ある親子の会話

父:「子よ、あなたは何が欲しいのか?何でも求めなさい」。

子:「御心のままに」。

父:「だから、欲しいものを言ってみよ」。

子:「私は自我を十字架で砕きます」。

父:「そうではなく、具体的に欲しいものを求めなさい」。

子:「私は自分を否みますから、私の信仰を認めてください」。

父:「あなたはわたしの子であり、わたしの持っているものはすでにすべてあなたのものなのだ」。

罪と病気

下のご意見から伺えるとおり、罪と病気の問題はきわめてセンシティブな部分がある。イエスは、ある盲人に対しては、本人の罪でも親の罪のためでもなく、神の栄光が現れるためと言われた。ベテスダの池の病人に対しては、これ以上罪を犯さないように、悪いことが起きないように、と言われた。

原則として言えることは、死はひとりの人の罪によってもたらされた(Rom 5:12)。すなわち病気もアダムの罪による。イエスは十字架で人類の罪と病を負われ、否、罪とされ(2Cor 5:21)、病を知られた(Isa 53:3)。そしてその打ち傷により、私たちの罪は赦され、病は癒された(Isa 53:5)。私たちはアダムにあって生まれ、生きてきたが、ある時、イエスと共に十字架でアダムにある自分が死に、キリストにある自分が復活したと知った。さらに私たちは新しい創造とされた。問題は、この身体がまだ旧創造に属していること。その中には罪(Sin)が住んでいること。ゆえにこの身体は病気を抱えるし、罪も犯す。そこで問題は、私たちにとっては、あなたの罪はすべて赦されていると宣言することは容易だが、あなたの病気はすべて癒されていると宣言することは困難なのだ。何故?後者は目に見えることだから。

Bill Johnsonが受けている非難に(彼に対する批判や非難は相当のものがある。一部のニッポンキリスト教徒からの私への非難に匹敵するかもだ・・・)、彼自身メガネを必要としているし、息子も補聴器を必要とする難聴ではないか、とするものがある。彼もそれは真実に認めている。なぜ、他人は癒せるのに、自分と息子は癒せないのか?回答は、不明、だ。私たちには分からない。英国のKingdom Faithでも、わが師であるJohn Mckayはガンで死亡した。Colin Urquhartは胃ガンになったが、10年経っても健在だ。なぜ?・・・分からない*1

目に見える現象としては、癒されない人もいるし、綺麗に癒される人もいる。しかし、極私的には、病気の人に対しては手をおいて祈ることを淡々と続けたいと願っている。それは機会がよくても悪くても御言葉を語り続けることと同じ。御言葉を聴いた人がすべて救われるわけでもないが、聖書には淡々と種まきをせよ、とあるからだ。私たちには誰が癒される/癒されないは不明であるし、誰が救われるか/救われないかも不明だ。主は多分言われていると思う:主権者はわたしであるから、あなたが知るべきことではないと*2。ただ御心はすべての人が救われ、癒されることであることは否定できないと思う。

*1:ひとつヒントになる聖句がある。創世記28:16(Gen 28:16)でヤコブは、神の家ベテル、天の門に神がいるとは気がつかなかったとある。神は常に共におられるのに、私たちは気がつかない、当然神の声(レーマ)を聴くことができない。あらゆる場面におられる神(I AM)に気が付くかどうか、これは大きな差を生み出す。信仰は自力で絞り出すものではない。神の声レーマを聞くことから生まれるのだ。
*2:私は医学の介入を否定するものではないので、注意されたい。人間の裁量権に任されている部分は相当にあると考えている。神学用語を弄すれば、「一般恩恵」として。

病気は神の賜物だから感謝して受け取りなさい

と教える人々がいるとのこと。ある集会の証の本に、「病気の癒しを祈ってはならない、悪霊が働くから」と書いてあるのを見て目が点になったことがある。この人たちは異言も悪霊によるとしているらしい・・・・。要するに病気の中で自分の十字架を負って主の造り変えの御業を受けることが大切ということのようだ。彼ら的にはこれがいわゆる聖化の過程なのだ。うーっむ。

つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。-Acts 10:38

悪魔に苦しめられて人たちをすべていやされた!これは悪霊に憑かれた人のこと?ここの「いやされた」は"iaomai"、Strongによれば"heal, make whole"とある。健やかにされることだ。イエスはあるときに方針を変えられたのだろうか?ヘブル書には、昨日も、今日も、永遠に変わらない、とある。

わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならばその言葉は決して取り消されない。-Isa 45:23

いじめっ子にいじめられて人格が錬られることを恵みとすることはあり得ないように(ニール・アンダーソンの黙想参照)、私たちは不当ないじめっ子には立ち向かうべきなのだ。

ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。-James 4:7

いじめられっ子メンタリティーからマインドのトランスフォーメーションにより解放される必要があるのだ。これは病気だけではない。人間関係の束縛、貧困、逆に富の誇り、世のプライドなども同じ。あらゆる妨げから自由にされて神の国の豊かさを享受するためだ。

追記:次のような証もある。死を間近にした少女が天使のタッチを受けて癒されたと。映像も・・・。


追記の追記:ある読者の方からこの記事について次のような指摘を受けましたので、ご意見として掲載させていただきます。個人的な情報は抜いております。

さて、本日の病気に関する記事について、気になることを書かせてください。
病気に対しても受動的であることは避けねばなりませんが、現在病気をかかえておられる方が、あまねく受動性による不信仰の結果だと受け取りかねないような論旨になっている気がします。

いじめの話ですが、現場で多くのいじめを見聞きし、それに対応してきた者としては、いささか違和感を覚えます。
現在のいじめは非常に複雑で、簡単に立ち向かえるようなものではないし、それを病気と重ねて論じるのも、重なる部分はほとんどありません。
また、いじめの経験を通して、加害者も被害者も傍観者も、またそれに関わる第三者も、成長することはたくさんあります。まさに人格が練られるわけです。
私も子どもたちがいじめいじめられる姿を見ながら、いろんなことを教えられてきました。
まさに深刻ないじめの渦中にいる子どもをお持ちのご家族は、記事を読まれるだけで、どのような手段や方法をもって、いじめっ子が不当ないじめに立ち向かえるのかという絶望感を覚えられる気がします。

どうも癒しとかいじめの問題はかなりセンシティブなトピックであることは否定できないようです。私の論はきわめて単純化しておりますので、ご了承ください。

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