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トップ > 2015年02月14日

ロゴスからリアリティを見る能力

プールでたっぷり泳ぎ、ジャクジーを堪能してきた。冷たい風に吹きさらされてジャグジーに浸かる瞬間が実にシアワセ。

さて、Bill Johnsonの本に実に名言と思われる言葉があった。"God is the Father, the Son and the Holy Bible"ではないと!使徒時代、もちろんいわゆる現在の66巻からなる聖書などはなかった。また写本もまとめられていたわけではなく、使徒たちみなが旧約聖書をすべて知っていたとは思えない。パウロはこの点、ガマリエルの下で薫陶を受けた結果、新約の啓示を旧約と照らしてまとめる務めができたのだ。つまり使徒たちは父と子と聖ではなく、聖霊に従ったのだ。

実は私自身も聖霊の働きに関しては、どちらかと言えば無頓着だった。正確に言えば、聖霊をキリストの御霊として理解し、特に人間生活を経た霊として関係を保ってきた*1。もう少し言えば、内なる御霊は経験し(inの面)、味わってきたが、外なる御霊(uponの面)、つまり聖霊の働きあるいは現象についてはそれほど重きを置いていなかったのだ(→御霊と人の関わりについて―油注ぎ(on)と油塗り(in)―)。この点、Bill Johnsonが面白いことを言っている、内なる満たしは自分のため、外なる満たしは他人に仕えるためだと。なるほど、私の言う、いのちとしての本質的満たしと働きのための機能的満たしのことだ。しかも、聖霊は神ご自身なのだ!

Bill Johnsonが受けている批判に、聖書を無視しているというものがある。しかし、これは批判者が霊的に開かれていないためだ。聖書自体は白黒の文字。文字は人を殺すが、霊は人を生かすのだ(2Cor 3:6)。つまり聖書をいのちとして、神がリアルに語ることば、すなわちレーマとしてくださるのは聖霊だ。聖霊はあらゆる真理に導いてくださる霊(John 16:13)。先のマクスウェルの方程式(これ自体はロゴス)から次の電磁波のイメージを見ることが出来る人が物理学者なのだ。このためにはある種の能力が必要となる。

ファイル 4747-1.gif

聖書の言葉も同じ。それ自体はロゴス。しかし聖霊がそこに働くとき、聖書が立体的に見えるようになる。聖書を読むのではなく、神の語りかけを聞く感覚なのだ。御言葉の霊的な解釈とか解き明かしとかではなく、神が直接に語りかけて下さっている。それを聞くこと自体に喜びを覚えるのだ。イエスの言動も3D映画となる。また彼が個々の場面で語った言葉の意味というよりは、動機と心が理解できるようになる。さらにはイエスの息遣いも感じられる。この能力をくださるのが聖霊だ。聖霊に頼らず、聖書と六法全書的に向き合ったらなんとも味気ない。神の言葉の記録というよりは、録音と感じられ、神の言葉に耳を傾けるのだ。Dr.Kさんが指摘されたとおり、従順とは傾聴なのだ。

聖霊に関する意識、これを改めて刺激されている次第。

*1:アンドリュー・マーレー:『キリストの御霊』を参照。

ワード・オブ・フェイス(WoF)

最近私が書いていることはもろにいわゆる超聖霊派系、あるいは第三の波系、あるいはワード・オブ・フェイス系として、警鐘を鳴らして下さる向きもある。わたしは一応サイエンティストとしてこれらの各派についても知っている。彼らを批判する人々の記事も読んでいる*1

今、私がなしていることは、これらの派とか運動とは関係なく自分が経験し、見たこと・聞いたことをベレヤ人にならって聖書と照合している次第。それらはこれまでの自分のマインド・セットからははるかに逸脱する事だからだ。私と類似の経験をしているビル・ジョンションもニューエイジとか、妄想的カルトとか、仮現論的キリスト論者だとか言われているようだ。さらに彼の赴任した教会で聖霊の働きと現れが顕著になるや、教会が真っ二つに分裂し、千人が離脱した事件もあったようだ。これはイエス自身の経験でもある。イエスが発言し、業をなすと、人々は必ずふたつに割れた。さらには悪霊に憑かれているとか気が狂っているとまで非難されている。確かに、イエスが現在において当時と同じ言動をしたら、当時以上の騒ぎが起きるだろう。特に、キリスト教徒の間から

いわゆるクリエイティブ・ミラクルという現象を報告している人々がある。切断された指や切除された乳房が再生される現象だ。あるいは腕の骨を固定していた金属が骨に変わるとか・・・。その究極が死者の蘇生。私自身も炎症のため手遅れになり、中等度から音域によっては高度難聴だった右耳が癒された。つまり損傷した組織が再生したのだ。また神経が圧迫され、麻痺した右足がきれいに癒された。二週間ほど感覚がなくなって固まる足を引きずっていたが、現在はジョギングも自由。これらの症例は医学的データMRI像で示したとおりだ。

そこで今の私の問題意識は、下に書いたとおり、神の形(内的にも外的にも(Gen 1:26))に造られた人が神の属性を有していることは否定できない。堕落によってそれは潜在化しているが、十字架と血潮により贖い取られ、神の子とされ、うちに神を宿す私たちがどの程度まで神の属性を享受し得るのかという点なのだ(これは私たちが「神になる」ことではない。)。イエスが言われた、「信じる者にはすべてが可能である」とか、「わたしがなす業よりも大いなる業をなす。わたしが父のもとに行くからだ」という御言葉の実際を味わいたいという餓え渇きが起きているのだ。鍵は私たちが語る言葉にあることは間違いない。霊から神のレーマを受けてそれを語り出すとき、

このように、わが口から出る言葉*2も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。-Isa 55:11

*1:そもそも霊について開かれていない人々の批判などは相手するまでもない。霊のことは霊によって知り得るのだから(1Cor 2:14)。例えば人が体・魂(知・情・意)・霊の三部分から構成されることを否定する人々などだ。彼らは電磁気学を知らずに電波の存在を否定することと同じ愚を犯している。
*2:へブル語"dâbâr"、Strongには"a matter (as spoken of) of thing"とある。"as spoken of"と但し書きがあるが、物の実質のことなのだ。これは信仰が実体であることの反映であろう。神の語り出されるレーマは神の信仰の実体だからだ。ゆえに神の口から出る言葉は見えるものを生み出す。その言葉を与って語り出す特権をクリスチャンは有しているのだ。さらに一歩進めれば、私たちが信仰によって霊から語りだす言葉には同じデュナミスが存在することになる。これがワード・オブ・フェイスなのだ。

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