オバマVS.プーチン―善と悪の真相
エゼキエル38章でゴグ・マゴグは顎を引っ掛けられて麗しの国を攻める(Eze 38:1-5)。本心はしたくないのかもだ。
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Tag: エゼキエル
エゼキエル38章でゴグ・マゴグは顎を引っ掛けられて麗しの国を攻める(Eze 38:1-5)。本心はしたくないのかもだ。
下のヨブの記事に関連してご質問をいただいた。エゼキエルの場合はどうか?
また主の言葉がわたしに臨んだ、
「人の子よ、見よ、わたしは、にわかにあなたの目の喜ぶ者を取り去る。嘆いてはならない。泣いてはならない。涙を流してはならない。 声をたてずに嘆け。死人のために嘆き悲しむな。ずきんをかぶり、足にくつをはけ。口をおおうな。嘆きのパンを食べるな」。
朝のうちに、わたしは人々に語ったが、夕べには、わたしの妻は死んだ。翌朝わたしは命じられたようにした。 -Eze 24:15-17
彼の妻は一瞬で取り去られた。イスラエルの人々へのしるしとして。なんと過酷なことを神はなさるのか。ご自分を知らしめるために、人々がご自分を主と認めるために、エゼキエルの妻は、おそらくなんの落ち度もなかったにも関わらず、取り去られたのだ。自分の家族が死に瀕しているのは、主がご自分を現すために、あるいはご自分を主とするためのしるしなのか・・・・。とても自分は耐えきれない・・・。こうしてアレコレ、思いをこねくり回して蟻地獄に落ちる。信仰を使うなどはどこかに飛んでしまう・・・。
はっきり言おう。これはトリックだ。忘れてはならないのは、旧約はすべて型であり、影であること。本体は、もちろんキリストだ(Col 2:17)。エゼキエルの妻の例は、本体であるキリストを指している。父なる神はご自分の目に喜びである御子を捧げられた(Mark 1:11;John 3:16)。エゼキエルに対する過酷な要求、声をたてずに嘆け・・・云々は、父なる神ご自身の嘆きである。父なる神はご自分を知らしめるためのしるしとして、最愛の、唯一の御子を取り去られたのだ!このエゼキエルの例を自分の状況に適応するのは誤っている。もし、家族が病気であるならば、すでに御子が捧げられ、すべての代価が払われている故に、大胆に時期を得た助けを受けるために恵みの御座に近づくのだ(Heb 4:16)。そこにはすでにイエスの血が注がれているのだ。信仰によってご自分の元に来られる者をすべて癒して下さる!
これらのトリックはすべて信仰の欠如による自己憐憫のなせるわざだ。このような場合に必要なのは、まず自分に信仰がないことを認めること;それを悔い改めて聖霊に息吹いていただくことを求めること。自分のマインドに去来する思いではなく、御言葉を取り、御言葉に固く立つこと。つまりヨブと同じように、自分を退けることが本質なのだ。これが十字架ではないか!自分を退けて御言葉を選ぶならば、しるしとしてのイエスが払われた代価に基づいて、正当に癒しや必要の満たしを求めることが出来る。それは私たちの法的権利なのだから。ある者はいうであろう、Dr.Lukeよ、高慢だ。神に対して正当な権利を主張する? まことの遜りとは御言葉を御言葉通りに信じること。欺かれない者は幸いだ。負債はすでに完済しているのだ!大胆に信仰によって主張せよ!すべての病は癒された、と。