Dr.Lukeのワンショット―言葉はサブスタンスまたスピリット
- 2016/11/04 12:14
- Posted by Dr.Luke Karasawa (唐沢治)
- Category:信仰, 科学
- Tag:フェイスの覚醒, キリストのマインド, マトリックス, サブスタンス
Dr.Luke的日々のココロ
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Tag: キリストのマインド
聖書では、今日しばしば見られる力の欠如した宗教的有様とは全く異なる絵を提示しています。私たちは罪、恐れ、敗北、破壊による現代の世的あり方を超越する恵みと能力を得ていると信じます。聖書は言います、だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを持っているのです(1コリント2:16)。「思い(mind)」のギリシャ語はnousです。それは「認識し、理解し、また感覚や判断、決定する能力」です。私たちは神聖なインスピレーションに基づいて理解し、感知し、判断するためのキリストと同じ能力を有しているのです。私たちはキリストのマインドを持っているのです!これはとてつもない真理です。
思い起こしてください。キリストはその地上におけるミニストリーの間、日々御父との完全な交わりの中に生きていました。大切な点は、キリストのミニストリーは彼の神性においてではなく、聖霊に満たされることにより、彼の人性においてなされたのです。そしてキリストが得ておられた(そして今もなお得ておられる)、同じ御霊を私たちも得ているのです!
古いことわざがあります、「認識が現実である」と。言い換えると、あなたの考え方に従って―あなたの理性と認知を含めて―あなたがリアリティーであると信じる事を形成するのです。ゆえにあなたのマインドを神の言葉に従って再構成することが重要になります(ローマ書12:2参照)。神の言葉を絶えず黙想することにより、キリストのマインドを育成させ、天の視点を得ることができます。覚えてください、私たちはキリストのマインドを「得るためにする」のではなく、すでに得ているのです!それはすでに私たちのうちにあるのです!
今ここで、あなたがキリストのマインドを有していることを知るならばあなたの祈りは革命的に変革されることでしょう。ジーザスは答えられない祈りをすることはたった一度もありませんでした!御父が聞いて下さることと、ご自分を受け入れて下さることをジーザスは決して疑うことがなかったのです。事実、ヨハネ書11:42において御父に向って、「あなたはいつもわたしの願いを聞いて下さることを知っています」と言われました。キリストのマインドは勝利のメンタリティーです。
出典:Kynan Bridges, The Power of Prophetic Prayer, Whitaker House, pp.77-78
■励ましの言葉⇒http://www.kingdomfellowship.com/Encourage/encourage29.html
私が何度も何度も「声を出すこと」を強調している理由、それは自分の澱んだマインドから出るためなのだ。人は無意識のうちに自分の魂、特にマインドの習性に従って、その世界に埋没している。セレブでもそうなのだ。体はそこにいてもマインドがセレブの雰囲気にチューニングされていない。
イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』-Matt 13:14-15
これはわれわれにもそのまま適用される。変化しない人は、要するにマインドにベールがかかっているために物理的には御言葉を聞いているが、心では聞いていないのだ。それは
彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。-2Cor 4:4
これはクリスチャンでも言えること。物理的に聞くことと、心、もっと言えば霊で聞くことはまったく異なる。マインドが鈍くなっているため、御言葉が通らない。こういった人はしばしば知的には優れており、知識はたくさんもっているが、霊的にはなかなか頑固であり、容易に変化しない。
我々の神、主はホレブで仰せになった。「あなたたちは既に久しくこの山にとどまっている。向きを変えて出発し・・・-Deut 1:6-7
私が「アーメン」などの応答を求めるのは、このマインドのベールを引き裂くためである。マインドの中にぬくぬくと埋没していることはそこそこ気持ちいいこと。しばしば人は心ここにあらず、フェイスはナウ経験であると何度も指摘しているが、マインドが鈍い人はピンと来ない。したがって、今、ここで、神が備えてくださったことを受信することできないし、喜びも味わえない。彼らにとっては単なる教義であり、教えに過ぎないのだ。サブスタンスとして、それが彼らの内的リアリティーとならない。人は真理に触れるならば、その人から醸されるオーラが変化する。不思議なもので、この霊的オーラはすぐに分かってしまう。生活の思い煩いとか、体の心配とか、アレコレに囚われている人はモヤモヤとして、スカッとしたオーラを発散していない。何か籠っているのだ。
それを引き裂くためにセレブにおいて立って、手を挙げて、声を張り上げて、主を賛美する。これが必要なのだ。座ったまま、受け身で、なんとなく時間をやり過ごす傍観者は自分がいかに損失を被っているかに気が付くべきであろう。マインドが主にフォーカスされないままワーシップの時間を過ごすことはけっこうつらいと思うのだ。自分を否むことはここから始まる。自分を大事大事している人ははっきりというが、セレブに来ても意味がない。なぜ?霊的な共鳴も、バイブレーションの共有もないからだ。これがあって初めて互いの霊が結びつき、ワーシップが甘く、潤いのある豊かなものとされる。
こうして自分のマインドから出ること。それはキリストのマインドをアクティブにすること。御言葉はおのずと開けて、そのような人は自然と人手によらず、つまりオーガニックに成長する。私のメッセを聞いてメモしても何の意味もない。そこに流れている霊のバイブレーションを受け、それを共有することが必要なのだ。教会って訳、これで飼い慣らされると、教えてもらう会になるだけ。自分から関わること、つまり当事者として霊の流れに参加することできなくなる。これが干からびたキリスト教の儀式となる。セレブがそんなものになるのであれば、やめたほうがいい。一人ひとりが自分を裂き、当事者として、セレブを作っていく姿勢を見せること。神のわざはその時にこそなされるのだ。
信仰は永遠の現在の領域、つまり物理的時空間を超える領域のサブスタンスを、物理的時空間における、今、ここに、現出させることだ。なぜなら、神はアイ・アム(I AM)。神の国はNOW AND HERE。私たちは時間と空間を超える存在。なぜ?キリストとともに天の座(Eph 2:6)いるからだ。天は時間と空間を超えている!その座から、キリストのマインド(1Cor 2:16)によってこの物理的時空間を見るとき、すべては終わっていることが分かる。
DO YOU BELIEVE THIS?