出家と献身-ニッポンキリスト教のタブーをあえて
- 2017/02/13 19:44
- Posted by Dr.Luke Karasawa (唐沢治)
- Category:信仰
- Tag:献身, 教職制度, ニコライ派
こういうキャピキャピ系の子は、実はかなり無理しているのだ。限界だったんだろうね。
-清水富美加さん出家 「とくダネ!」菊川怜さん「芸能界は精神的に支えがないと…」小倉智昭さん「それが幸福の科学だったのか」
こちらは「出家」、ニッポンキリスト教は「献身」。あんまり変わりないような・・・
クリスチャンはね、みな献身しているんです。仕事辞めて、神学校行って、牧師按手受けて、晴れて牧師センセイの誕生・・・ってシステム、聖書のどこに書いてあるわけ?ジーザスが「先生と呼ばれるな」と言われているでしょう?
そもそもポイメンは牧【師】などではない。牧する者、つまり牧【者】に過ぎないのだ。それもね、エペソ書見れば、使徒・預言者・伝道者・牧者/教える者と言うランク(これもね、五役ではない、四役。幕屋の構造見れば明らか。これはまたいずれ)。よく夫婦でダンナが牧師で、オクサンが伝道師とか称してあたかも牧師見習いみたくなっているが、とんでもないニッポンキリスト教的勘違い。
そもそも教職と信徒といったシステムはエペソの教会で入り込んだが、ジーザスが「ニコライ派の教え」として断罪していますが、それが何か?(これは「ニカオ=民衆+ラオス=支配」の意味) しかし、これを指摘するとね、このギョウカイのタブーだから、かなりヤバいわけ (って、してるじゃん、ハハ)
詳細はこちら⇒教会歴史について(http://www.kingdomfellowship.com/Topics/churchhist.html)
要するにPistis=Faithを信仰、Poimen=Pastorを牧師と訳すから、ニッポンキリスト教が生まれる。それは日本語のマトリックスのトリックなのだ。すべからく、霊的真理は日本語で理解するな!
追記:"Not that we are sufficient of ourselves to think any thing as of ourselves; but our sufficiency is of God;"、ここを新改訳は「資格」と訳しているが、KJVは"sufficiency"、Strongではability。牧師の免許とか、そんな教団カプセルだけで通用する紙切れ貰ってもしょうがいないでしょうに・・・。
追記の追記:ニッポンキリスト教のシーンに引っ張り出されたころ、マジで不思議なことだらけだった。これ、そのリスト⇒ニッポンキリスト教の七不思議+1