マインドのマトリックスから解かれよ!
私自身、クリスチャンになってからも長いことこのマトリックスの中に生きていた。否、あえてサイエンティストの端くれであることを誇り、その自然科学的世界観を尊びつつ、その中でアレコレ、手練手管で生きていたのだ。経済の知識によってカネを稼ぎ、31歳にして5,510万円の負債を抱えて、見事にマネーシステムの奴隷でもあった。借金を抱えて、マネーを稼ぐことが男の度量だと思っていたし、誇ってもいた。が、コレ、見事にこの世の君のマトリックスに絡め取られていたのだ。マネー経済自体がフェイク。何度も言うが、北朝鮮の紙幣など誰も欲しくない。これと同じことがドルでも円でも、これから起きる。繰り返すが、あなたの銀行預金は単なる通帳の上の数字に過ぎない。現ナマはそもそも存在しないのだ
人類はすべからくマインドコントロールされている。自分はMCされていないと思っていること自体がMCされている兆候。誰も、自分が欺かれていると思いつつMCされることはない!
彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。-2Cor 4:4
これはクリスチャンとても同じこと。彼らは聖書解釈とか霊的解き明かしとか、キリスト教の教義とか伝統や文化といったマトリックスにはまっている。今回のメッセでも語ったが、創世記1章1節で天地が創造された後、サタンの反逆によって、荒廃し、虚しくされた地球の上を神の霊が覆い、保護していた。そこにまず神はレーマによって光をもたらされた。この光が差し込むことがない限り、人は栄光の君を見ることはできない。マインドがあの者のフェイク、マトリックスによって封じられているためだ(⇒「この世」について)。
いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。-Ps 36:9
主イエスは言われた。信じる者にはすべてが可能である、と。では、信じるとは?これが問題。いわゆるキリスト教徒たちの「われは・・・を信ず」とか、「聖書66巻を神の霊感によって書かれた誤りなき神の言葉と信じます」とかは、たいてい嘘である。それは信仰、もっと正確には信(pistis)ではない!信仰はもともとスーパーナチュラルな、シックスセンスの領域の事象。この地上のものでは、そもそもない。それを地的経験や物理的視力、いわゆる五感の世界の中でアレコレいじるために、事がややこしくなる。いわく、聖書の解き明かしとか、深い霊性がどうのこうのとか・・・。それはこの世の物差しによって御言葉を測ること。そもそも聖書はこの世のものではない。私たちもイエスがそうであったと同じく、この世のものではない。この物理的時空間に、霊的領域の神の国が介入しているのだ。私は今、手を挙げるだけではっきとこの世界に触れることできる。
ちょうどペイントソフトにあるレイヤーに似ている。グラフィックを書くとき、映像のレイヤーと文字のレイヤーを重ねて、一枚の絵とするが、同様に、この物理的時空間というレイヤーに霊的領域の神の国というレイヤーが重なっているのだ。ただ前者には色がつき、われわれの五感に感知できるが、後者は透明であり、五感には引っかからない。この二枚のレイヤーの狭間に聖書というメディアが置かれ、両者を結合しているのだ。私たちの霊は見えないレイヤーを感知することができる。さらにそこに描かれている天のサブスタンスを見ることができる。加えてそれを目に見えるレイヤーに現すことができるのだ!これが信仰である。自分のオツムで念じるとか、使徒信条をしつこく告白するとか、そのようなものではない。それがキリスト教である。この違い、お分かりだろうか?
天のサブスタンスを地へともたらすこと。私たちが自分のアイデンティティーに覚醒し、アクティベーションされればされるほどに、その神の国のデュナミスが発揮される。そのとき、自分の能力に驚くことであろう。え、これが私???と。そのようなポテンシャルを、信じる者は有しているのだ!主にある者たちよ、キリスト教という宗教のマトリックスから解かれよ!覚醒せよ!アクティベーションされよ!
信じる者はわたしのわざと同じわざをなし、さらに大いなるわざをなすであろう。-John 14:12