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恐れこそを恐れよ

これ、確か、アメリカの大統領の発言だったと思う。恐れとフェイスは互いに背反だとメッセでも語っている。完全な愛は恐れを取り除く。恐れる者には愛がまっとうされていない。この聖句、真に受ける必要がある。恐れる者には次々に問題や病が降りかかる。これ本当に不思議な事であり、厳粛な事。

昨日の大腸ガンの兄弟にとっては死の可能性はあるも、彼にとっては死のトゲはすでに抜かれてしまっている。フェイスが働いていることが彼との応答の中でわかる。彼には恐れがない。ニューエイジでは「引き寄せの法則」というが、恐れは確かにその対象を招き寄せるのである。ヨブが証言したとおりだ、自分の恐れていたことが降りかかった、と。それはフェイスの穴、アリの一穴ダムをも崩す。

主イエスの教えの中でもっとも繰り返されたこと、それは「恐れるな!」。はあ、人間は弱いものだから、恐れるのは当たり前でしょう・・・。はい、どうぞ、それにアーメンしてください。恐れはあなたを正当に支配するでしょう。あなたがその権限を恐れの霊に与えてしまったのだ。何度も言っているが、自分が同意した対象は自分の上に権威を行使する正当な権限を許すことになる。

フェイスによらない愛は罪だ。それはヒューマニズム。愛のないフェイスはむなしい(罪といっているのではない!)。すべてフェイスによらないことは罪なのだ。ゆえに愛によって働くフェイスが大切だとパウロは言う(Gal 5:6)。つまり愛が働きかつフェイスが働く、ならば恐れはまったくあるべきではない!恐れる人は自分を大事大事している人。彼らは自分を投げ出すことができない。ペテロのように舟から荒波に一歩を踏み出すことができない。自分の小さなコンフォートゾーンに閉じこもるのだ。恐れの霊はそのような人を格好のターゲットにする。霊的書物もよく読み、ポジティブコンフェッションとかもよく実行している。が、彼らの根底には恐れがある。ヨブと同じだ。

この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした。-Job 1:5

恐れから出たものはどんなに信仰深く見えてもフェイクである。それには実効力がない。私たちの得た霊は恐れの霊ではなく、愛と力と健全な思いの霊である。健全な思いとは恐れから解放された思い。私たちのすべての言動は愛にある安息と平安から生み出されるべきものなのだ。

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zion

ルークさんの「クリスチャンは恐れてはならい!」の一喝で、恐れないことを決心。特に職場では恐れを捨てました。それは結構簡単でした。で、あら不思議、首や肩の硬直感が消えて、体が軽くなりマインドも一新されました。今度は「自分を裂け!ツボを割れ!」にチャレンジです。ハレルヤ!

  • 2016/03/30 19:29:08

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