フェイスが働く培地と瞬間-幼子のように
メッセでも語ったが、恐れの霊を受けてしまうと祈りが働かない。恐れから祈る祈りはすでに恐れの霊によってドライブされているからだ。これは誰もが経験したものと思うが、祈りが単なる言葉の繰り返しになって、サブスタンスにタッチする感覚がないのだ。このような場合、さらに事態を悪化させるのは、自己弁護だ。霊的書物をよく知っていたり、頭脳がけっこう高級な方々によくみられる兆候であるが、アレコレの用語を用いて、自分の状態を分析したり、事態をあたかも客観的に冷静に把握しているかのような素振りを作ってしまうのだ。
大地は粘土に型を押していくように姿を変え/すべては装われて現れる。-Job 38:14
われわれは地であり、そこに次から次へと様々なスタンプが押される。もちろん神の印も押されるのだが、しばしば敵の印を押されてしまうのだ。病気や欠乏や人間関係の縺れなど・・・、これらはこの世の霊が生み出しているマトリックスである。が、それに同意するとき、それは動かし得ないリアリティーかのように私たちに迫る。そのような状態で祈っても祈りは空疎に落ちてしまうのだ。それは衣装をとっかえひっかえするように表の表現を様々に変える。しばしば自分で自己弁護のためにその装いを厚くしてしまうのだ。これがマインドの罠、要するに自縄自縛状態。自分のマインドの中に自分を幽閉してしまう。こうして神のデュナミスの流入をブロックするのだ。
はっきり言おう、フェイスがなかったら、ないと言えばよい。とても自分の病気が癒されるとは信じられないと本心を語ってしまうのだ。不思議なもので本心に立ち返るとき、神のタッチを受けるのだ。
そこで、彼は本心に立ち返って言った。-Luke 15:17
この瞬間、あれほどに縺れていた蜘蛛の巣がサッと解けてしまう。自分でどんなにもがいても得られなかったものが、瞬間的に「得られた」と分かる。すると平安がさあーっと心に満ち、喜びがこみ上げてくる。これがフェイスの瞬間だ。理屈ではない、ただ分かる。I know that I know. 終わった、得た、開かれた、解かれた、癒された、と分かる。それは完了形。サブスタンスを得た瞬間である。あとは時系列の中でこの物理的時空間にそれが現出してくる。もちろん瞬時に現れる場合もある。
霊的な書物をたくさん読み、あるいは聖書の知識などは豊かに得ている人が、しばしば悲惨な事態を経験する場合が多い。その時に外から見ていると原因が分かるのだ。何が敵の侵入を許すポイントであるのか。敵が付け込む隙、フェイスの穴が見える。ヨブのケースで明らかだが、引き寄せの法則的に自ら招いているのだ。霊的知識とか霊的書物、あるいはフェイスの偉人たちの黙想集や証集などは役に立たない。その当事者のフェイスが問われている! これはある意味崖っぷちであり、フェイスの有無が文字通り命運を決める。フェイスはきわめて単純。むしろややこしいリクツなどは知らない方がよいだろう。自己を偽らず、飾らず、単純に受けるだけ。これがフェイスを生む培地。まことに
天国は幼子のものである。-Mark 10:14
聖書を学ぶことも大いなる罠になる。聖書を知っていることはひとつのこと、フェイスを用いるのは別のことである。聖書をよく知っていてもフェイスのない人は山ほどいるのだ。御言葉は啓示、啓示は霊的領域を顕わに見せてくれる。それは言葉(ロゴス)を超えている。リアリティーに直接タッチすることなのだ。このとき、神のデュナミスが流れ込むのが分かる。身体反応や情緒的反応として文字通り経験できるのだ。霊的サブスタンスが五感の領域であるこの物理的時空間に現出する。これがフェイスの作用。その意味で聖書の知識というマトリックスからも解かれる必要があるのだ。聖書を介して啓示を得ること、それはすなわち霊的領域のサブスタンスをゲットし、そのリアリティーに触れることだ。そのために霊をチューニングし、鋭敏にする必要がある。まことに神のバイブレーション、レーマを聞くことができる者は幸いである。
shige
アーメン、魂(恐れてる人の命の主体)では霊の領域の真理(癒し、必要の満たしなど)を受け取れませんからね。私はよくルークさんの記事やメッセをシェアーするのですが、熱心で聖書知識が豊富な人ほど???だったり、ヤバイと感じるようです。確かに人間的には優秀な人が多いのですが、クリスチャンと御言葉やキリストをシェアー出来ないなんて、、、。霊的なふりをして独立したがる魂はほんと厄介ですね。