復活のデュナミスを味わえ!
メッセでも語ったが、イエスはラザロをよみがえらせるとき、すでに自分は復活であると宣言した(John 11:25)。はあ?イエスよ、あなたはまだ十字架についていないではありませんか?とナチュラルなマインドは考える。ノー!イエスはその後肉体をもって十字架につかれた。しかし神のサブスタンスとしてはすでに復活だったのだ!何度も言うが、フェイスは時空間を超える永遠のNOW!イエスはつねにフェイスによって生きていた。彼はクロノスではなく、カイロスに生きていたのだ。事実、
And all that dwell upon the earth shall worship him, whose names are not written in the book of life of the Lamb slain from the foundation of the world. -Rev 13:8
世界の基が置かれる時からほふられていた小羊の書に名の記されていない者は・・・が正解。いつも言うが日本語訳はよろしくない。世界の基が置かれる時にすでに小羊はほふられていたのだ!復活は別にイースターに起こったわけではない。それは単にイエスが肉体を持って復活された日であって、霊的リアリティーとしてはすでに彼は復活だったのだ!
私たちはそのキリストの死と復活に包括されて、死んで、復活した存在。これから未来において復活するのではない。すでに私たちも復活したのだ。Are you with me? その復活のパワー、デュナミスはどれほどのものであるかを知れとパウロは言う。デュナミスはダイナマイト、それは爆発するのだ!
また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。-Eph 1:19-21
われわれはこのキリストといっしょに天の座につかされているのだ(Eph 2:6)!まことにこれはスーパーナチュラル。そのデユナミスに与るカギは、自分を絶えず脱ぎ捨てること。脱皮だ。自分を大事大事している人は恐れの霊の餌食になる。おくびょうな者は神の国に入ることはできないのだ。
だから、古い人の会話を脱ぎ捨て、それは情欲の欺きによるものであり、思いの霊から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を着て、真理に基づいた義と真の聖なる生活を送るようにしなければなりません。-Eph 4:22-24(私訳)
情欲の欺きとは別に動物的欲求のことだけを言うのではない。先週のメッセでも語ったが、五感の欺きである。また邦語訳では「心の底から新たにされて」とあるが、これも違う。思いの霊が新たにされるである。われわれのマインドは霊から自立したがるが、そのマインドに霊が染み込むことを言うのだ。私たちのマインドは常に何か会話をしている。それが自分の言動に現れる。これが生き方である。つまりマインドに霊の浸透を受けて、そのアダム系の会話を改めることが新しい人を着ること。そのときキリストのマインドが私たちのマインドを支配するのだ。
正直に言うが、イースターを祭るって、ああ、この人は復活のパワーを知らないなあ、と分かってしまう。日々、瞬間瞬間が復活だ。それはスーパーナチュラルな五感を超えた世界の経験なのだ。WOW! そのとき、神のデュナミスをわれわれは経験する。それは内に仕掛けられたダイナマイト、スイッチを入れて自爆せよ!