神の国(キングダム)とエクレシア

神の国と教会(エクレシア)は必ずしも同義ではない。地上におけるイエスの行動を見ると、神の国の到来を告げつつ、彼のところに来た人々をすべて癒された(Luke 6:20)。彼らは必ずしもクリスチャンであったわけではない[1]そもそもいわゆる「聖書」や「クリスチャン」なるものは当時はまだなかった(認識されていない)のだ。。神の国の到来は地上において神ご自身の権威とパワーを証しする。イエスはいわゆる礼拝堂においてのみその御業をされたわけではない。弟子たちと旅をしながらいつでもどこでも人々の必要に応じられたのだ。その中から召された者たちが得られた。エクレシアの素材として。

こうして十字架を経て、復活の週の最初の日の夜に弟子たちに「聖霊を受けよ」と息を吹きかけ、目に見えないエクレシアが誕生し(John 20:21)、40日間彼らを訓練した後昇天され(Acts 1:3)、ペンテコステの日に炎のように聖霊の傾注がなされ、エクレシアが目に見える形で顕現した(Acts 2:1-2)。彼らには天で御心がなるとおり、地にもなることが委託され、神の国の証しを任されている。エクレシアは本質的にはキリストの体であり、キリストの花嫁であり、経綸的には神の国の地上における派出所のような権威と機能を与えられている(☞全聖書啓示のエッセンス=神のオイコノミア=)。

つまりイエスのなされた業は、いわゆる礼拝やセレブレーションの場面のみでなく、地上においていつでもどこでもなされるべきなのだ。対してキリスト教なる人工的宗教は神学やボックス&ボクシの管理下にエクレシアを収めようとする。これはパリサイ派や律法学者の所業と同じだ。現在エクレシアはキリスト教なる宗教に幽閉(捕囚)されている(☞第二のエクソダス-宗教を離脱せよ-)。が、本来エクレシアは自由であり、その機能は御言葉(福音)の宣べ伝えとシンクロしている。福音こそが神のパワーである(Rom 1:16)。事実、弟子たちはこう祈っている:

主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるし不思議なわざを行なわせてください。-Acts 4:29-30

そしてなによりもイエスご自身がこう言われる:

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。-John 14:12

最近とみに、これが終わりの時代のエクレシアのあり方なのだと感じている。何度も恐縮だが、要するに聖書は私たちの生来のマインドからすると、ぶっ飛んでいるのだ。マインドがまずトランスフォーム(メタモルフォーシス)されること(Rom 12:2)、これが神の国を現出させる第一の鍵なのだ。それは神の国の地上への進攻だ。

たとえば、主は生まれつき盲目の男の目を開くとき、つばきと土を混ぜて泥を作り、彼の目に塗り、シロアムの池に行って洗えと命じた。「はぁ?主よ、彼は目が見えないのですよ、シロアムの池は階段で降りるのです。目を開いてあげてから洗えと言うべきでしょう?」あるいは「この手順になんの霊的意味があるのだろうか?」等々。

私たちの生まれつきの魂の一機能である思い(mind)は必ず理屈に従ってジャッジする。それは不合理だ、論理的でない、おかしい、馬鹿らしい・・・と。逆に言えば、生まれつきの魂の人は自分の理性を誇り、論理に従うことを人間性の最高の指針とし、自身のプライドの根拠とする。だから、彼らは霊のことは理解できないし、彼らにとっては愚かなことなのだ(1Cor 2:10)。つばきで泥を作って、目に塗るって!?

論理は「p→q」がunitだ。「pならばq」と読む。英語では”p implies q”だ(=pであることはqであることを意味する。)。pとqを満たす要素の集合(真理集合)をそれぞれP、Qとすると、このunitが真であるときは、「x∈Pならばx∈Q」のこと、i.e.P⊆Qのことだ。言い換えると、「x∈Pであるのにx∉Qであることはない」ということ、すなわち「¬(p∧¬Q)」のこと。この真理表は次のとおりになる。

p

q

¬p

¬p∧q

¬(¬p∧q)

×

×

×

×

×

×

×

×

×

このような操作を形式論理というが、私たちの通常用いている思考法則(シーケンス)を定義したものだ[2] … Continue reading。私たちはこのような法則、まあ、地上の知的法則に従うことを良しとする。が、イエスはあえてこのような法則を逸脱するのだ。そもそも「神は父・子・聖霊の三パースン(位格)にいまして、唯一である」といういわゆる三位一体の定式もこの論理から逸脱している。これをパースンにおいては区別されるが、本質においては同質(ホモウシオス)とか解釈を加えて一応納得するわけ。が、自然界における光ですらも波もであり粒子でもあるわけだから・・・。創造主はわれわれのマインドにチャレンジされる!

・・・とお遊びは置いておいて、イエスはあえて私たちのオツムを弾けさせる。唖の男を癒すときには、両耳に指を入れ、つばきをつけて彼の舌に触った(Mark 7:33)。はあ? 何の意味が? 知恵の木の実を摂った人類に対する神の挑発とも言えるかも知れない。神の知恵と人間の知性と、どちらが偉大なのか? 神の知恵は人間にとっては愚かなのだ。それが十字架だった(1Cor 1:18)。神の国を地上に顕す鍵は従順。それはすなわちリスクを取ること。人の目にとっては愚かな道を歩くこと。ラザロを蘇らせる時も、イエスはあえて愚かにも4日も待った。会堂司の少女を蘇らせるときは、「寝ているだけだ」と言って、人々から馬鹿にされた(Mark 5:39-40)。イエスは自分の身内からも「狂っている」と見られている(Mark 3:21)。パウロもしかり(Acts 26:24)。

かくしてフェイスは希求するものの実体(サブスタンス)、見えないものの証明(デモンストレーション)だ(Heb 11:1)。それは論理を超越している。目の前の事象を論理の網(マトリックス)でシーケンシャルにとらえたがるのが人類の性。が、イエスは違う。すべてをフェイスの目で見ている。それは見えないものが見えるものを構成することを知っておられるから(Heb 11:3)。彼は霊によりたちまちのうちに見えない実体を把握し、それを語り出すのだ。すると目の前の事態は一瞬にして変えられる。これが神のキングダムにおける生き方なのだ。キングダム・シンキング(マインド)キングダム・アッタランス。まことに

「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。-2Cor 4:13

歴史的にクリスチャンのあり方は、ある人々は「浸水礼」を金華玉条とし、ある人々は「聖化」されることを、ある人々は「しるし・不思議」を、ある人々は教会の「立場」を、ある人々は「繁栄」を・・・・と、まことにそのスペクトルが広い。これでいわゆる「ナントカ派」や「カントカ教団」ができる。あるいは「自分たちは宗派ではないとする派」もある。しかし、それは各論。総論は「主の祈り」のとおり、神の国の地上での現出(デモンストレーション)にある。その中に、罪のゆるし、病の癒し、しるし・不思議、浸水礼、聖化、教会生活、繁栄など、各論が展開するのだ。「主の祈り」をいわゆる主日礼拝の式文としてではなく、マジ受けするならば、実はかなりやばいことなのだ。サタンはそれを恐れている。なにしろイエスご自身による祈りだから!

天に御心がなるとおり、地にもなるように!

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1 そもそもいわゆる「聖書」や「クリスチャン」なるものは当時はまだなかった(認識されていない)のだ。
2 ちなみにこの真理表によれば、子供に「入試に受かったら1万円あげる」と約束した場合、受かってもあげない場合はウソになるが(2列目)、受からなかったらあげてもあげなくてもウソにならない(3,4列目)。あるいは「-1=1→(-1)2=1」も、「2=1→22=1」も共に正しい! え、なぜ? と質問が・・・。もっと言えば、「犬=1→犬2=1」も正しい。要するに、仮定法、反実仮想の世界である。

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