新著(正式に出版決定)でも強調したが、人類は旧人類(アダム族)と新人類(キリスト族)しかない。後者は新創造、ニュー・クリーチャーだ。十字架以前には存在していなかった人類。神はキリストの傷から流れた血と水によって新しい創造物を生み出されたのだ。
よくキリストのうちに生きるにはどうすればよいかとか、自分はすぐにアダムに戻ってしまうとか、キリストのうちにとどまる秘訣は?とか言い出す人がいる。これらの人たちは自分の経験や感情を基準にしているためだ。私たちはすでに新しく生まれたキリスト族、すでにキリストにうちに置かれてしまっている!ピリオド。これが真理。でも、自分はよく癇癪を起こしたり・・・やめ!あなたは人間でなくなることができるだろうか?自分は油断していると猿に戻ってしまうけど、どうしたら人間に戻れるだろう・・・。これは笑い話だ。
キリストのうちに置かれたことは、キリストのアイデンティティーと所有と属性などがすべて私のものとなることを意味する。キリストは神のサブスタンスの現出。神たる方の満ち満ちている存在、神の充満。そのうちに置かれたのだ!これは私が何をするとか、しないとか、一切関係ない。プールに入れば、水の充満に浸かるのだ。何をしようとも、しなくても。12月以降、手で神を感じるようになった。それはプールの中で手を伸ばせば水を感じるのと同じだ。私たちは神の中に生きているのだから(Acts 17:28)。
私たちは個々の事柄で神の御心から外れているか、いないか、よく心配する傾向がある。体操の平均台の上を歩むようにビビリつつ生きているクルシチャンも多い。私たちはキリストのうちに置かれているとは、すなわち神の大局的な御心の中にいることなのだ。もっと言えば、神の御心から出ることはできないのだ!すでにすべては完成されている。神はこの時間と空間に縛られていない。霊的世界は永遠の現在。ゆえに私たちの人生もすべては終わっている。これがキリストのマインドだ(1Cor 2:16)。
あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。-Ps 139:16
クリスチャンがもっとおおらかに、父なる神の愛にあって、ゆったりと、まったりと、しかし悠々と、豊かに生きるようになれば、人々の心に渇きを起こさせることができる。福音は人に渇きを起こすことだとW.ニーは言っている。真に神の豊かさを味わうならば、人々は私たちを見るとき、渇くのだ。渇きを覚えるに至れば、あとは簡単。伝道は決して折伏することでもなく、相手を論破することでもない。
もともと聖書はヤバイ書なのだ。生まれつきの人のマインドには決して入らない世界を提示している(1Cor 2:14)。クリスチャンもマインドが五感に縛られ、この世界においてのみ御言葉を解釈するから、あれこれとややこしくなる。私たちのマインドを超えた世界がこの物理的時空間に介入していることをまず知る必要がある。聖書は道徳の書でも、倫理の書でも、人生哲学の書でも、教育の書でも、生き方の書でも、ない!イエスは言われた。
しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。-Matt 12:28
永遠の現在に存在する神の国が、この時空間に介入しているのだ。もっと言えば、天が地に侵食している。これが福音だ!葬儀の際、やはり40年来の友人がこういった。「霊の世界ってあるの?」。「ありますよ」。「じゃ、クリスチャンってシックス・センスの世界に生きているわけ?」、「そのとおり!」。相手を納得させる必要などはない、もともと納得などできない世界を告げ知らせているのだ!