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Tag: 十字架

罪(Sin)と古い人(Old Man)と肉(flesh)の関係

この一連の記事、驚きました。

-クリスチャンには原罪があるか?(その1-5)

一見、もっともらしいが、なんとクリスチャンのうちには罪(Sin)、つまりいわゆる原罪がないと。その主張はこうです:

  1. パウロの言っている「うちに住んでいる罪」は過去の視点
  2. 「うちに住んでいる罪」は「過去」の「古い人」を意味している
  3. 「うちに住んでいる罪」は「善をしたいが悪が宿っているという原理」
  4. 「うちに住んでいる罪」は「からだの中にある罪の法則」
  5. 「からだの中にある罪の法則」は「肉の思い」
  6. 「肉の思い」 = 「古い人」は死んでいるのにも関わらず生かす事も可能

罪(Sin)や古い人(Old Man)や肉(Flesh)を見事に混同している!ニッポンキリスト教の諸々の間違った教えについてはすでに放置の姿勢が原則なのですが、これは重要な論点なので指摘しておきます。ただし、あえてここで反論するのも疲れるので、私の記事を紹介しておきますが、ちょっと懸念される誤りですね。

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-人間の聖書的啓示と現代精神科学

-罪について

-肉について

-律法とクリスチャンについて

ポイントは私たちの体がまだ贖われていない事。だからパウロも地上の幕屋の中でうめいていると証している。さらに神の子たちの出現、すなわち体の贖いを待ち望むとも・・・。言動としての個々の諸々の罪(sins)は血潮により、過去・現在・未来すべては消し去られていますが、内住の罪(Sin)はいぜんとしてこの古い肉体に残るのです。罪に同意するから個々の罪を犯すのです。それに対する対処はすでに成し遂げられた十字架の死と今の私たちによるその適用、つまり御霊により体の働きを殺すこと(Rom 8:13)。要するに、罪(Sin)は残るのですが、それはすでに裁かれており(Rom 8:3)、ニュークリーチャーである新しい私を支配することはないのです(Rom 6:14)。それはすべてフェイスによるのです!

 

 

フェイスは霊的フーリエ変換?

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本日のH氏との会話―

H氏:ルークさん、信号処理で時間領域の波形データをフーリエ変換すると周波数領域のスペクトルが出ますよね。スペクトルは内積で計算しますから、正射影、これって物理領域と霊的領域と似てませんか?

Me:なるほど、確かに。するとフェイスってフーリエ変換のように二つの領域を変換する作用を持っているのかも・・・。霊的サブスタンスをフェイスで変換すると物理的サブスタンスなる。なるほど・・・。

これはけっこう面白いテーマ。かつて京大の小針さんは、確率論の本で、質量とエネルギーの等価を超えて、情報量(エントロピー)まで含めた保存則が成り立つのではないか、と妄想話をしておりました。

が、最近はブラックホールでは情報のみが生き残るとか、つまり質量とかエネルギーといった物理量は情報量が変換されたものというようなハナシになっているようです。最後に生き残るのは、まさに、情報エントロピー。つまり言葉!

御子は、神の栄光の反映(イメージ)であり、神の本質(サブスタンス)の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉(レーマ)によって支えておられます。―ヘブル書1:3

パウロは言っている:キリストの<広さ>、<長さ>、<高さ>、<深さ>を知れ、と。それはまさに4つの次元をもつスーパーナチュラルな世界のサブスタン ス。至聖所は立方体、そしてついに完成されたエクレシアである新エルサレムも立方体。ちなみに四次元立方体を3次元で展開するとまさに十字架になるのだ。 WOW!

4次元立方体の3次元展開図は十字架

私たちが見ているものは高次元の影、あるいは断面。四次元立方体の3次元展開図は十字架。立方体は至聖所の形。究極は新エルサレム(1辺が12,000スタディオンの立方体)。それは神の臨在そのもの。シェキナ・グローリー。先の私の「真理とは何か」と合わせて見てほしい。

十字架は究極の脱力

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うーん、気持ちがイイ。力を抜いて千メートルほど。その後、露天のジャグジーで。とにかく気持ちがイイ。いつも思うのだ、なぜ泳げない人はおぼれるのだろう? ぼくには溺れる方が不思議。

フェイスも同じ。十字架は死と復活のサブスタンス。罪と死の法則からいのちの御霊の法則への転換。自我を砕きぃ~とか叫ぶクルシチャンたちは力が入っており、もがく、すると沈む。叫べば叫ぶほどドツボにはまる。

水と同じで、力を抜けば浮かぶ。その法則に乗るコツを得た人には、逆に沈むのが難しい。あえて沈めば25Mくらいは潜水できるが、それは不自然で苦しい。 死は究極の脱力。脱力すればあとは自動でいのちの御霊の法則が働く。死が働くとき脱力、それは安息。それはフワッと天へと引き上げてくれる。

十字架って、重荷でもないし、もがきでもないし、苦しさを我慢することでもないし、自我を砕きぃ~とかヒステリックに叫ぶことでもないし、ましてや病気や 貧困を耐え忍ぶことでもない。十字架はすべての病を癒し、われわれを豊かにしてくれる。しかもそれは軽い。なぜ? 究極の脱力だから。

キリスト教のマトリックスから解かれよ。フェイスの法則は霊的サイエインス。脱力すること、こんな安楽な道はないのだ! 老子の言う無為自然の道。まことにジーザスこそ道だ。

Dr.Lukeのワンショット―十字架って何でしょう?

宗教マトリックスからの解放、もうクルシチャンやるのは十分ですよね♪

Dr.Lukeの一言映画評―『復活』

ハリウッドにジーザスをテーマにした作品が多々あるも、この視点からの描かれたものはないかもだ。復活が意味すること。人は死者の復活というこれまでのパラダイム(マインドの構築した世界観)に反する事態に対して、いかなる反応をするのか。すでにジーザスは復活した。この事実を妄想とするのか、偽りとするのか、それとも自分のパラダイムを否定して事実とするのか。要するに福音とは、自己を否むこと、自分の十字架が要求されるのだ。

しかし、復活は単に事象としての奇跡で終わらない。ただ単に「われはキリストの死と復活を信ず」と唱えても、それは宗教に過ぎない。が、神はキリストの死と復活により新しい創造を生成した。神は新人類、すなわち新生命体(ニュークリーチャー)を生み出したのだ。そのわき腹から流れた血と水、そして聖霊によって新しく生み出された存在、つまりエクレシア。エクレシアとはキリストの充満(Eph 1:23)。邦訳によくある「キリストが満ちておられる”ところ”」ではない。キリストご自身の充満!それはキリストのいのち(Zoe)そのもの、新生命体だ。

キリストは復活された週の最初の日の晩に弟子たちに現れ、ご自身の息を吹きかけて言われた。聖霊を受けよ、と。それは復活のいのちそのもの。アダムは神の息を吹き込まれて生ける魂とされたが、弟子たち、つまりエクレシアは第二の人類の初穂であるキリストの息を吹き込まれ、そのいのちの充満とされたのだ。これがニュークリーチャー。われわれも時空間(五感の領域)を超えて、キリストと共なる死と復活にあずかり、その新しい生命に参加させられている。十字架は単に歴史事実だけではない。神はすべてのみわざを永遠のNOWにおいてなされる。なんというミラクル!ハレルヤ!

わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。-Rom 6:4

本日の一冊:The Latent Power of the Soul

 

W.ニーによる"The Spiritual Man"の続編とも言える書。アダムはもともと神に似せて、神の様に創造され、地と生物を統治する能力を得ていた。彼の堕落以前の能力は、現在の私たちの能力と比すると、ほとんどスーパーナチュラルなのだ。が、堕落によってその能力は魂のうちに封じ込められた。これがある種の人々においては肉体の制限を破って出現することがある。これがいわゆる超能力だ。私たちには、ある種のスーパーナチュラルな現象と見える。いわゆるしるしや不思議を追求するクリスチャンも、これらの魂の潜在能力による現象を、聖霊によるしるし・不思議と混同する向きがある。

W.ニーはここで警鐘を鳴らす。クリスチャンにとってのしるし・不思議はあくまでも私たちの霊を通して聖霊が働かれる結果であり、自分の魂の潜在能力が発揮された結果ではないと!前者は新創造から生み出されるものであり、後者は旧創造のものに過ぎない。しかもしばしばサタンがその手助けをしている。サタンは再生されたクリスチャンの霊にはタッチできないため、魂に働きかけて、その潜在能力を煽る。その目的は、神に頼りつつ、神の栄光を求めるのではなく、自分の栄光を追求すること。もっと言えば、自分を神とすること。サタンの根本的動機はそこにあるのだ。

今日、終わりの時代において、いわゆるしるし・不思議、さらに奇跡などを求める傾向がどんどん強まり、実際にその現れもこれまでになく頻度を増す。しかし、この霊による現象なのか、魂による現象なのか、この識別がきわめて重要なのだ。まことに反キリストはこの魂の潜在能力によって大いなる業をなすのだから。ここでも鍵は、霊と魂の切り分けにあるのだ(Heb 4:12)。

私がこのところ強調しているスーパーナチュラルは、もちろん魂を否むことによる霊からのもの、それは聖霊による。その聖霊の働きを阻害するのがむしろ魂のマインド(思い・知性)なのだ。だから、マインドのトランスフォーメーションが重要になる(Rom 12:2)。それは十字架によるのだ。すなわち魂の能力をあえて否むこと(Luke 9:22-23)。最近、Dr.Lukeはやたらとスーパーナチュラルを連発して、危ない傾向に入っていると思われる向きがあるようだが、私は根本を外していない。私が求めるスーパーナチュラルは新創造のもの、つまり霊からのものであり、魂の超能力によるものではない。表層的な判断はなさらないようにお願いしたい。

そもそも、「霊の再生」にしろ、「聖霊の内住(もちろん父と子も)」にしろ、「体の変貌」にしろ、すべてはスーパーナチュラルな現象なのだ。元より聖書はスーパーナチュラルな世界を提示しているのであって、それを物理的時空間において五感だけを頼りに解釈したり、御言葉を"解き明かし"たりするために、真理が毀損されるのだ。かくして三浦綾子や遠藤周作の彼らのマインドにはまる文学の世界に矮小化、あるいは歪曲化される。時には神学化も。

スーパーナチュラルな神はすでに天を裂いて、地に介入されている。神の国のサブスタンス(実体)がすでにこの物理的時空間に介入しているのだ!(Matt 12:28)私たちの霊は神の国へのポータルであり、私たちはイエスというポータルを通して、出たり入ったり、つまりこの物理的時空間と霊的世界を行ったり来たりすることができる存在なのだ。つまり神の国と地との狭間に存在する、新しい創造、ニュークリーチャーなのだ!

 

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