スピリチャル・サブスタンスによって生きる
義人はフェイスによって生きる。-Rom 1:17
目に見えるものによらず、フェイスによって歩んでいるからです。-2Cor 5:7
われわれは通常、身体に備わった五感(視・聴・臭・触・味)により、自分の置かれた環境を感知し、評価し、反応している。これは物理的時空間にある「私」の生き方だ。それは五感によって生きること。が、イエスはそうではなかった。彼はもちろん完全なる人であったが、五感によって生きたのではない。
よく「イエスの御足に従う」とか、「イエスのように生きる」とかいう標語があるが、なにかシャナリシャナリと聖人君主を気取ることのように思われる。が、そうではない。イエスの言動を見てみよ。宮の両替人の机をひっくり返し、ムチで彼らを追い払った。きわめて激しいのだ。
イエスは、もちろん五感も味わっていたが、霊的領域のサブスタンスを見ていたのだ。だからラザロが死んだ時も、彼の内側ではすでに蘇りのサブスタンスを把握していた。そこであえてラザロの死後4日たってから、彼の家族の元を訪れた。
するとイエスは、あからさまに彼らに言われた、「ラザロは死んだのだ。そして、わたしがそこにいあわせなかったことを、あなたがたのために喜ぶ。それは、あなたがたが信じるようになるためである。では、彼のところに行こう」。-John 11:14-15
そして
すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。-John 11:41-43
私たちのマインドがトランスフォームされるとき、このイエスと同じ思考パターンを得ることができる。すでに私たちはキリストのマインドを持っている(1Cor 2:16)。すると霊の事実がマインドのうちに流れ込んでくるのだ。こうして霊のサブスタンスがマインドに映るとき、私たちは「得た」と把握する。あとはそれを語り出せば良いのだ(⇒フェイスはフォティーゾ(霊的感光))。
2014年12月、それまで五感の世界はある意味十分に楽しませてもらった。そろそろ倦んでいたかもしれない。そんな折に、霊的世界に直接タッチする経験を得た。パウロは第三の天に挙げられたと証言しているが、私も引き上げられた。霊的サブスタンスに満ちている世界へ。これは決していわゆる「聖書の学び」から得られるものでもないし、「御言葉の解き明かし」でもない。そのものにタッチすることなのだ。フェイスはシックス・センスである。どうしたらその経験ができますか、とよく聞かれるが、私自身分からない。
富士山に登ったことのない人にいくらガイドブックを解き明かしても、富士山の登頂の快感を共有することはできない。しかし、あそこにタッチし、富士山頂のリアリティ、あるいはサブスタンスを得た者にとっては、言葉はもはや不要なのだ![1]この経験は特別な者だけが得るものではない。なぜならクリスチャンはすべてキリストとともに天の座にいるからだ(Eph 2:6) 実際に富士山登頂の経験がある者同士は言葉を交わさなくとも理解できるものだ。内側に富士山頂のリアリティー、サブスタンスを持っているから。単なる言葉だけの人はすぐに分かってしまう。
メッセでも、著書でも語っているが、すでに私のあらゆるサブスタンスは神によって記録されている(Ps 139:16)。神のフェイスの世界では天地創造の時にすべてが完成している(Heb 4:3)。その神のフェイスに浸り、生きること。ゆえに主イエスはこう言われた。
神のフェイスを持て[2] … Continue reading。-Mark 11:22
個々の問題や病などはその大局的な神のフェイスに従って五感の領域においては時系列的に処理されていく。なぜなら-
いま、フェイスとは願われるサブスタンス、観察されていないことの現出である。-ヘブル11:1(私訳)
聖書は五感で読んではならないのだ。
是非フォローしてください
最新の情報をお伝えします