神の奥義なる嗣業

むしろ私たちは、奥義の中にあって〔今に至るまで〕隠されてきた神の知恵を語るのであって、それを神は、世々の〔創造〕以前に、私たちの栄光のために、あらかじめ定められておかれたのである。・・・
「目が見ず、耳が聞かず、人間の心に思いも浮かばなかったこと、そのことを神は、神を愛する者たちのために用意されたのだ」。
そして、まさにこの私たちにこそ神は、霊をとおして〔そのことを〕啓示されたのである。霊は、すべてを、神の深みをさえも、探り尽すからである。
・・・霊的なものによって霊的なことがらを判断しながら、そうするのである。・・・
しかし、自然的な[1]脚注として、psycheの形容詞形・・・、要するに「魂的な」の意味。 人間は、神の霊のことがらを受け容れない。・・・しかし私たちこそは、キリストの思いをもっているのである。-1Cor 2:7-16(岩波訳)

御言葉(ロゴス)を魂の機能のひとつである思いによって理解することはひとつのことで、もちろん必要不可欠。知性による祈りもあるのだから(1Cor 14:15)。しかしこのレベルで満足して、ここで止まっては大いなる損失。霊によりその言葉が指しているリアリティにタッチしてゲットする必要がある。これは神が、私たちの栄光のために用意してくださったもの。よく「神っさまにすべての栄光をお返しします~っ」とかやるが、これは何度も言っている通り、臭い。神は私たちの栄光のために「人間の心に思いも浮かばなかったこと」を用意して下さっている。これは霊的領域に存在する。それを信仰は実体とする。すると地的領域に現出するのだ。神の国はロゴスにではなく、デュナミスにある。

神は何を用意して下さっているのだろうか?もちろん御子を下さった。彼のうちにこそ神性も霊的資産もすべてが存在する。信じる者はすでにそれを所有している。キリストの思いすら!が、これまで私の思いのキャパ、それはただちに信仰のキャパとなるが、により制限してきた。神の用意された富を経験化する度合いは各人のキャパに従っている。ここでマインドのトランスフォーメーションがきわめて重要となるのだ。これまでの自分の領域を脱すること、それには人間的(魂的)にはやや勇気も必要とされる。満々と流れるヨルダン川にまず足を突っ込むこと、セルフにとってのカンファート・ゾーンを脱することだから[2] 世から救い出される時は、まず紅海が割れてから足を突っ込んだ。救われた後のヨルダン川の経験ではその順序が逆になる。 。それはセルフの終わり。が、霊的法則はこうだ:捨てれば、その何十倍も得る、と!

初出(2015年1月18日

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1 脚注として、psycheの形容詞形・・・、要するに「魂的な」の意味。
2 世から救い出される時は、まず紅海が割れてから足を突っ込んだ。救われた後のヨルダン川の経験ではその順序が逆になる。

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