聖書を3Dで読むこと-無意味な神学論争に振り回されないために-

今回のメッセでも指摘しているとおり、神の意志人の自由意志の相克は無意味であることは、かつて再建主義の富井氏との議論において指摘した。現在、スパムのためにそのBBSを閉鎖しているので、簡単に触れておく。

人が救われるのはその自由意志によるのか、神の選びによるのか。もし神の選びによるのであれば、選ばれていない人は救われないのか? あるいは神の意志のみが行われるのであれば、私の祈りなどは無意味ではないのか? 私が今祈ることはたして神の意志に従っているのか、それとも神の御心に受けれられないのではないか?・・・等々。

アダムの堕落も彼の自由意志によるものであると通常は考える。いわく、神は人をロボットとして作られたのではなく、自ら愛し、自らご自身に従うために、自由意志を与えられたと。しかるにアダムはそれを乱用してしまったとする。確かに現象としてはそのとおりであり、一応の説明は可能だ。が、一方では聖書はこう告げる-

被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。-ロマ8:20

この被造物には人は含まれないとする人々がいるようであるが、その立場に立って考えても、人を除いた被造物が虚無に服したのはアダムの罪のためであることは否定できない[1]ロマ書8:22(Rom 8:22)では「すべての被造物」とあることを指摘しておく。、ゆえにその結果を生んだアダムの罪は神の意志によることになる。これが論理的帰結だ[2] … Continue reading。原因は神の意志によらず、結果だけは神の意志によるとするのは論理的にも破綻している。

そもそも人に自由意志を与えたのも神の意志である。この場合の神の意志は、よくキリスト教徒が何かの選択をする際に、「これは神の御心だろうか、自分の意志だろうか」とか悩むようなものではない。アダムは確かに自由意志を用いたが、その意志の結果さえ、神の意志によるのだ。つまり五感の領域における誰々の意志というよりも、時空間を超えた永遠の神の意志である。この領域ではすべて神のわざは完成しているのだ(Heb 4:3)。

これでいわゆる二重の選びを唱えたカルバンと、人の自由意志の働きの介入を唱えたアルミニウスの議論が生まれるわけだ。単純に言って、確定論と偶然論の二項対立である。救世軍の山谷少佐はアルミニウス的立場にあり、中間領域なる神学概念をもって、人の自由意志と天使的勢力との関わりに基づくモデルを提示されている。

この点については自然科学の視点からすると、認識論の限界があり、確定と偶然をそもそも区別することはできないのだ。つまりコインを投げてできる裏表の系列(偶然論)とある規則に基づいて生み出された数列(確定論)は1:1に対応するのである。これが現代のカオスの理論が示す人間の認識についての事実である。つまり、カルバンVS.アルミニウスの議論はナンセンスなのだ。神の意志と人の意志を同一平面においてしまうゆえに、コンフリクトが起きるわけだ。

さらに、イスラエルとエクレシアの選びについても、置換神学などが唱えられる。いわく、イスラエルは霊的イスラエルであるエクレシアに置き換えられたゆえに、その選びは終了したと。数年前、バチカンもそのような決議を行った。が、これも二つの選びを同一平面上に置くことによる罠である。これについては次の記事を参照されたい:

また、律法と恵みの関係や、行いと信仰についても同様に同じ平面上で考えると対立が起きる。これがルターの誤り、ひいてはプロテスタントの根本的ミスであることもすでに指摘しているところだ。

神の愛(人を赦したい)と義(人を裁く必要性)も二項対立するところであるが、神の第二格位のロゴスがジーザスとして人間となられ、十字架においてその二つを見事に実証(弁証ではない!)された。YHWHが両当事者としてご自身の本性を証されかつ宇宙の秩序を守られたのだ[3]旧約は人が神の基準を満たせば祝福されるという片務契約、新約は神が両当事者の責任を全うした双務契約である。

神の意志と人の意志も一見対立するかのように見えるだろうし、ニッポンキリスト教徒はしばしばその葛藤でクルシチャン化するのも事実である。よく引かれるのが、ゲッセマネでの主の祈りである。が、あの祈りは特殊任務を帯びたジーザスにとっても特異的な祈りである。われわれに字義通りに当てはめるのは自滅を招く。それはあの十字架(The Cross)のためのものだから。われわれは主の十字架を担うことはできない。主は「各自の十字架を負ってわたしに従え」と言われるのだ(Luke 9:22-24)。

天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。-Isa 55:9

つまり、同一平面上では二本の平行ではない直線は交わる。が、3Dにおいては平行でなくても交わることがないのだ(ねじれの関係)。その二本はガチンコしない。かくして一見二項対立するように見える事柄も次元を上げるならば、矛盾なくそれぞれが存立し得るのである[4] … Continue reading

いつも掲載しているこの図を再度ご覧下さい。聖書はいのちの次元と善悪を知る次元において立体的に理解する必要がある。

再建主義者のシェーマと対比すると、その必要性がよく分かると思う。

実はこのように次元を上げる作業は数学や物理ではよく行われること。例えば、ニュートン力学(ガリレイ変換)と電磁気学(マックスウェルの方程式)は矛盾した。が、すべての慣性系において「光速度一定」と「物理方程式は同一の形に書ける」ことを前提にして、アインシュタインはローレンツ変換により相対性理論を構築した。物理現象をとらえるマトリックスの次元を上げたのだ。かくして現在は宇宙は10次元ないし11次元のヒモからなることが提唱されている(超弦理論)。

永遠のNOWにおいては神のわざはすでにすべて完成している。十字架もすでに天地創世の時にあったのだ[5] … Continue reading

もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。-ヘブル4:3

地上に住む者で、天地創造の時から屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは・・・-啓示録13:8[6] … Continue reading

この永遠の領域においてすでに成っている事(サブスタンス)が時系列の中において実体化するのである。これがフェイス。

いま、フェイスとは願われるサブスタンス、まだ観測されていないことの立証(現出)である。-Heb 11:1 (私訳)

言いたいことは何か。神の意志をこの五感の領域において、私の意志と並列すること自体がとんでもない僭越なことであるのだ。神の意志はこの領域を超える。それは永遠の領域においてすでに成就している意志であるから。その成就したサブスタンスを、<今・ここ>で実体化すること。これがわれわれのフェイスである。

十字架も人が効果で尊いからジーザスが身代わりになってくださったとかする幼稚なむきがあるが、主の死は単なる身代わりではなく(⇒1ペテロ3:18は単なる「身代わり」を意味するのか?)、全旧被造物を終わらせたのである。そして復活により、すべてを新しくされた。これが永遠のリアルである。

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。-2コリント5:17

この永遠の事実に応じるとき、それがわたしにおいて実体化(経験化)される。ここで私の自由意志(イニシャル・フェイスとでも言える)が働くが[7] … Continue reading、もちろんそれは聖霊の働きによるものである。つまり神の意志によるのだ。

ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。-1コリント12:3

ロマ書8章の議論は、旧創造と新創造の対比であり、われわれは新創造の初穂として、時系列における完全なる贖いの完成(=体の変貌)を待ち望んでいる。そして被造物もまた同じなのだ。そもそも神のご計画のすべては神の証のためあり、神のいのちの増殖のためである。つまりエロヒム属の拡大。これについては、私の「新創造セミナーI,II」を参照されたい[8]YouTubeではスライドを提示しておりません。動画をご希望の方はDVDをお求めください。。くれぐれも神の意志を自分の人生において誤解乱用することがないようにしてもらいたい。下手するとそれは自滅あるいは他滅を招くことになりかねないからである[9]自責感で苦しむクルシチャンもいるし、人が神の名の下にあってはどんな残虐もなし得ることは歴史が証明しているであろう。

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References

References
1 ロマ書8:22(Rom 8:22)では「すべての被造物」とあることを指摘しておく。
2 例えば、今、グラスが落ちて割れてしまったとして、これは神の意志であるとする。なぜ割れたか。それは誰かが落としたからである。では、その人が落としたことは神の意志になるのか、否か、と問うてみれば、明らかであろう。これは論理的に「p⇒q」が正しい時、pを満たす集合Pはqを満たす集合Qに含まれる。そのQが神の意志であるならば、当然にそれに含まれるPは神の意志になることは自明である。感情論や神学云々以前のお話である。
3 旧約は人が神の基準を満たせば祝福されるという片務契約、新約は神が両当事者の責任を全うした双務契約である。
4 われわれのオツムの中の概念は、上の画像のように実体(サブスタンス)の影に過ぎないのだ。影を論じるのがキリスト教神学。これでややこしい不毛なマトリックスが構築される。ちなみに佐藤優氏は神学についてこう語っている
5 使徒行伝はこう語る:このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した(Acts 2:23)。これは永遠の領域の十字架が時系列の中に神のフェイスにより現出することである。
6 邦語訳では「天地創造の時から、屠られた・・・」とするが、これは不適切である。永井訳は「天地創造の時から」を「屠られた」に修飾している。
7 ここで大切なのは、われわれの意志の「力」には救いのパワーはない。が、意志することは可能。それは御言葉に対する応答と言っても良い。このとき、私の意志と神の意志がハマルのだ。
8 YouTubeではスライドを提示しておりません。動画をご希望の方はDVDをお求めください。
9 自責感で苦しむクルシチャンもいるし、人が神の名の下にあってはどんな残虐もなし得ることは歴史が証明しているであろう。

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