神のフェイスを持て!-キリスト教マトリックスからの解放-
今回の聖書協会の新しい訳では、ヘブル11章1節が「信仰とは願うことの実質」とされているようだ。「確信」から「実質」に変えられたことは進歩であるが、ようやくの感が否めない。このギリシャ語は「ヒュポスタシス」、つまり実体、実質、土台、権利証書。ちょうど当選宝くじ券のようなものだ。それはまだマネーではないが、実質的にマネーを所有しているのと同じ。あとは引き換えればよい。だから、後半では、「まだ見ていないことの現出である(私訳)」となる。霊的な実体とその現出。これがフェイスである。
他の個所では、「キリストへの信仰によって救われた」(対格)が「キリストの真実によって救われた」となっている。ここは「キリストのフェイス」(属格)とすることはためらった模様だ。マルコ11章22節などはどうなっているだろうか? これまでは「神を信じなさい」だ(Mark 11:22-24)。これも本来は「神のフェイスを持て」だ。ガラテヤ2章20節なども「御子に対する信仰」とされてきたが、「御子のフィエス」とすべきだ(Gal 2:20)。
彼らのオツムでは「キリストの信仰」すると、「なんでキリストに信仰が必要なの?」となるわけ。信仰、すなわち「信じて仰ぐ」こと。その仰がれる対象が信仰するっておかしい、となるわけ。これがニッポンキリスト教のマトリックス。ギリシャ語の”pistis”やヘブル語の”emunah”を「信仰」とした時点で日本語マトリックスにはまる。信じて仰ぐゆえに、対格的訳に陥るのだ。
神はすべてのわざをフェイスによってなされる。創造もご自身のフェイスを語り出された(amar)。神の言葉(dabar)は実質、実体、マターである。単なるラベルではない。神の言葉は創造する。ジーザスも同じだ。ご自身のフェイスを使った。それは神のフェイス。そのフェイスを持てば、われわれもジーザスと同じわざをなし得る。
イエスは答えて言われた、「神のフェイスを持て。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。」-Mark 11:22-23
よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。-John 14:12
ここでは対格であるが、「わたしを信じる」ではなく、前置詞は”eis”、英語なら”unto”、つまり「私へと信じ入る」のニュアンスである。シェマティックには次のようになろう。
神/キリストのフェイスの中に入り込むとき、私たちはそのフェイスのフォースにより生きるのだ。ゆえにジーザスはこう言われたー
わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。 もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。 その日には、わたしはわたしの父の内におり、あなたがたはわたしの内におり、また、わたしがあなたがたの内におることが、わかるであろう。 ーJohn 14:18-20
私たちはキリストと共なる死と復活により、アダム・クラスからキリスト・クラスへと変えられ、キリストのすべての資産を継承した。それは私たちのフェイスにより時系列の中で実体化されていく(☞JAVAとフェイス)。
神の業は天地創世の時にすでに完成していた(Heb 4:3)。それは物理的時空間を超えた霊のリアリティ(サブスタンス)。すでに完成されている。十字架もすでに天地創世の時にあった(Rev 13:8)。この霊的リアリティが時空間の中で現出したものが二千年前の十字架である。これはすべて神のフェイスによるのだ。つまりフェイスは五感を超えたスーパーナチュラルなシックスセンスとしてのパワーあるいはフォースである。信じて仰ぐといったことは宗教である。そのマトリックスをエクソダスせよ!
あえて言えば、視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚を超えた信覚と言うべきである。それはリアクティベートされた霊の機能である(☞霊の機能と魂・体との相互作用について)。ゆえに、神のフェイス、御子のフェイスはなんらおかしな表現ではないと分かるであろう。
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