「主よ、主よ」と呼ぶが拒絶される者とは?-マタイ7章21-23節の意味-

わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。-マタイ7:21-23

イエスを主と告白できるのはただ聖霊によるから(1Cor 12:3)、ここの「主よ、主よ」と呼ぶ者はクリスチャンである。彼らは主の名を使って、預言をし、悪霊を追い出し、力ある業を行っている。まさに今日の聖霊派の状況である。が、彼らはイエスにより「全く知らない」と宣告される。理由は「不法を働く」からだ。そこでここを普通の牧師は「悪いことをしないで生きましょう」と説教する。嗚呼、これ自体が不法なのだ。

これについてはメッセでも何度も触れているが、「不法を働く」とはいわゆる「悪行」のことではない。われわれ、YHWHの霊と種(DNA)をインプラントされてニュークリーチャーとされた者たちは、善と悪を知る木によって生きるのではない。いのちの木によって生きる者である(☞聖書が究極的に語ることとは<旧新約聖書の鳥瞰図>)。善と悪とか、生と死とか、二元論的世界ではなく、いのちの一元的世界に生きること。そのいのちはZOEであり、いのちは法則によって機能する。それがいのちの御霊の法則である(Rom 8:2)。

23節の意味は、「法則に従わないこと」。その法則とはレビ系の石に書かれたモーセ律法ではなく、その上位互換バージョンのメルキゼデク系キリストの復活のいのちの御霊の法則だ(Rom 8:1-2)。この法則によるとき、モーセ律法も自動的に満たされる(Rom 8:4)。このことは再建主義の富井氏との議論でも何度も書いた[1] … Continue reading。メルキゼデク系の祭司制度にある私たちの責任は肉やモーセ律法に対してではない。それらに対してはすでに死んでいるからだ(Rom 7:1-6)。その死を信じ、御霊により生きること、これが私たちの責任となる(Rom 5:11;Gal 5:11)。これに外れることに対する警鐘がマタイのここである(Matt 7:21-23)。

つまり、イエスの名を使うことにより聖霊派が追及しているような徴・不思議は可能であるのだが、必ずしもいのちの御霊の法則に則っているわけではない。そこを主は咎めているのである。すべていのちから現出すること、これがYHWHの求める御霊の実である。

これらのイエスにより拒絶された人々は滅びるのだろうか? アブソリュートリー・ノー。彼らは永遠の救いは受けている。しかし、千年期において御国から追い出されているのだ(Matt 22:13;25:30)。その査定がキリストの御座の裁き(ベーマ)で行われる(2Cor 5:10)。この査定は千年期の前に行われるものであり、千年期における報酬を決定するものである(Luke 19:16-18)。よって滅びへの裁きではない。滅びへの裁きは千年期白い御座の裁きである(Rev 20:11-12)。

神の国とは霊的領域はもちろんであるが、経綸的に言って、YHWHエロヒムの主権の及ぶすべての時間と空間を網羅した領域である。御国とは現在のエクレシアの時代と来るべき千年期である。つまり経綸的に神の国の一部分である(☞神の国(キングダム)とエクレシア)。永遠のいのちを得てエクレシアに招かれるのはただ恵みによるが、千年期の報酬はフェイスによる行為(エルゴン)が問われる(James 2:17)。

なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。-2コリント5:10

報いとは必ずしも罰とは限らない。報酬である。だからパウロはこう証ししている:

植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。-1コリント3:8

神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになるを得るために、目標を目指してひたすら走ることです。-ピリピ3:14

永遠の救い(=神の国にエロヒム属として生み出されること)と経綸的に千年期に参与(=御国の報酬を得ること)することの区別、それに伴う白い御座の裁きとキリストの御座の裁きの区別を見る必要がある。この点においても再建主義の現在が千年期であるとする立場は聖書にそぐわないものであると言わざるを得ないのだ。

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1 MS-DOSはテキストベースでコマンドをミススペルなく入力して初めてPCを働かせることができた。WINDOWSはMS-DOSを包含しつつも、コマンドを知らずともアイコンクリックで操作ができる。しかもその時に、意識はなくともMS-DOSも働かせているのである。これがWINDOWSがMS-DOSの上位互換の意味である。同様にいのちの御霊の法則は、それに乗るとき、意識はなくても自動的にモーセ律法を満たしているのである。ゆえにいのちの御霊の法則はモーセ律法の上位互換である。

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