「”神の御心を示す道徳規準としての律法”は廃止されていない、むしろ、確立されている」と再建主義者

かつてはモーセ律法そのものが廃止されていないと言われていたように記憶しているが、私の記憶違いであろうか。ヘブル書やエペソ書に「律法は廃棄された」とある指摘に対して、こう主張されている:

歴史的にプロテスタントキリスト教は「律法は廃棄されていない」と考えてきました。

(ウエストミンスター信条を羅列して)

イエス・キリストは「私は律法を廃棄するために来たのではない」と言われました。

わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(マタイ5・17)

パウロは、「律法は無効になっていない、いやむしろ、確立されている」と言いました。

それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。(ローマ3・31)

パウロは、律法を基準として提示しました。

教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。(1コリント14・34)

聖書では、「救われるための道としての律法」は廃止されたが、「神の御心を示す道徳規準としての律法」は廃止されていない、むしろ、確立されていると教えています

http://www.millnm.net/cgi-bin/wwwboard.cgi

聖書そのものではなく、ウエストミンスター信条を根拠にする点においてすでに?ではあるが、突っ込みどころ満載である。最後のマーカー部分、「救われるための道としての律法」と「神の御心を示す道徳基準としての律法」とは何を意味するのか? 律法は律法であろう。前にパリサイ人らの「律法」は本来の律法ではなく、この「律法」が廃棄されたとも言っていたように記憶しているが。

極私的には何度も指摘してるが、石に書かれたレビ系祭司制度の「モーセ律法」は廃棄され、心に書かれた律法、すなわちメルキゼデク系祭司制度の「いのちの御霊の法則」にヴァージョン・アップされたのだ。後者に乗るとき、前者は自ずと満たされる。これはすでにMS-DOSとWindowsの関係で解説している

今回の富井氏の文章を読むと、すでに主張が揺れていることが感じられる。ちょっと前の勢いがない感じだ。もしかすると、薄々ご自分の理解が誤っていることに気が付きだしたのかもしれない。

またさらに続編ではこう述べている:

聖書は総合して理解する必要があり、一箇所もしくは複数箇所である教えが説かれていても、他の箇所でそれと矛盾する箇所があれば、調和させる努力が必要です。

正統派キリスト教は、このような調和の努力の結果、律法は廃棄されていない、と結論しました。

残念ながら、ディスペンセーション主義は「律法と恵み」を対立する概念と捉えておりますので、律法を廃棄され、無効化したものと考えております。

著名なディスペンセーション主義者であるS・スコフィールド博士は、「ディスペンセーションとは一つの期間のことであり、この期間の中で人間は、神が啓示されたその時代特有の御心に対して服従の姿勢を示すかどうかを試される」と述べています。

ディスペンセーションは7つあり、それぞれに独特な統治原理が働いています。ディスペンセーションが変われば、統治原理も変わります。あるディスペンセーションにおいて適用された原理は、他のディスペンセーションでは通用せず、ディスペンセーションが移行すれば、神はまったく違った原理で人間を取り扱います。それぞれはそれぞれにおいて完結しており、けっして相互に交じり合ったり混同することはありません。

日本のディスペンセーション主義者の中で律法と恵みを対立概念として捉えるべきではないと述べる人々がいますが、彼らは厳密な意味でのディスペンセーション主義者ではありません。 

聖書には矛盾はないのだが、富井氏のディスペンセイション主義の理解が分かった。「律法と恵み」を二項対立として理解する主義がそれであると、彼は理解していると言うことだ。最後の対立概念として捉えない人々の中に不肖Dr.Lukeも入るのであろうか?

極私的には律法は神の愛の配慮であり、人類をその中に守っていたのだと考えている。が、本体が現れたので、もはや不要。Zoeのいのちを分与(dispence)されて、いのちの御霊の法則により生きるとき、律法の基準、否、それよりも高い基準が満たされるのだ。

言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。-Matt 5:20

今、私たちが有している義は、神の義である!

神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、と聖と贖いとなられたのです。-1Cor 1:30

当然、律法学者の義に勝ることは言うまでもない。

一見矛盾に見える聖書の箇所も次元を上げれば問題ないことはすでにいくつかの例で紹介している(☞聖書の矛盾点は高次元から見ると解ける-キリストは4次元立方体)。律法と恵みの関係も次元が異なるのだ。善悪を知る知識の木の道か、永遠のいのちの木の道か。富井氏は一本の線上(面上)で考えているために、ウエストミンスター信条などの人工物を持ち出すことにならざるを得ない。

次元を上げよ!

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