白いキリスト教は捏造と欺瞞の上に構築されている

この記事は面白い。映画”Son of God”の金髪で青い目の白人”Jesus”はウソである。そもそも白人が作り上げた虚構が白いキリスト教だ。哲学とシンクレティズムしていわゆるキリスト教神学をでっち上げた[1] … Continue reading。イエシュアはそもそもキリスト教の教祖などではない。

聖書には

神はヤペテ(白人種)を大いならしめ、セム(黄色人種=ユダヤ人など、イエシュアも)の天幕に彼を住まわせられるように。カナン(黒人種)はそのしもべとなれ。-Gen 9:27

とある。白人は元々ユダヤ人の聖書をあたかも自分たちのものであるかのように、”Judeo-Christianity”を看板に帝国主義・覇権主義をもって世界を植民地化し、搾取し、牛耳ってきた。今もその構造は続いている。

しかるに白人はユダヤ人をゲットーに閉じ込め、蔑み、迫害した。つまり彼らから聖書すら搾取し、自分たちの専売特許にしてしまっているのだ。が、日本人は彼らを保護したことは歴史の事実である。そしてユダヤ人も日本人との親和性を証ししている。

西洋史とキリスト教史はほぼ重なるし、世界史もそのダイナミクスの影響を受けている。日本はある面でこの白人の横暴に対して抵抗し、あの戦争でアジア諸国を彼らの植民地状態から解放した。ただ、彼らのマネをしてしまったのだ。だから彼らの手の上に乗せられ、その中で動かされて敗戦。

現代においてあらゆる政治経済の制度あるいはプラットフォームを白人が作っている。日本人はその上で踊らされているだけ。コンピュータのOSもTRON(無償)なる優秀なものがあったのに、WINDOWSやiOSに負けた(隠れて普及しているが)。オリンピックでも日本人が躍進するとたちまちルールを変えられる。

ところが日本人は白人とその文化・社会に憧れ、劣等感を感じつつ、SDGsやPCなどのスローガンに乗せられ、搾取されている。ギャンブルでも政治経済でもプラットフォーマー(胴元・仕掛け人)が必ず勝つのだ。ほんとこの国民は実にオメデタイ国民である。

白いキリスト教から聖書を取り戻すこと。そして霊的に覚醒すること。これがわたしが(白い)キリスト教からのエクソダスを主張している理由だ。

またこの記事も興味深い。いわゆる仏教と量子論の絡みについて述べている。サイエンスは五感の領域をいかに認識し、記述するかがすべてだ。これを定式化したものが物理法則。つまり現実世界の認識論、そしてモデル構築である。

フェイスが(キリスト教なる)宗教ではないように、仏教も本来宗教ではない。前者はスピリチュアル領域の認識(論)であり、後者はこの五感の領域の徹底した認識(論)である。「色即是空」などはまさに物理学そのものだ。残念ながら人文系の文系オツムではほぼほぼ理解不能であろうが。

かくして現代物理学をやっていると両者の世界観の共通性を意識するようになるのだ。たとえばこのサイトなどはまことに面白い。

下に紹介した物理と仏教のサイトにあった、華厳経の現代訳を紹介しましょう。道元の『正法眼蔵』はここでも何度も紹介していますが、「有時の巻」にも相通じます。

微細なる世界は大きい世界であると知り、大きい世界は微細なる世界であると知り、
少しの世界は多くの世界であると知り、多くの世界は少しの世界であると知り、
広い世界は狭い世界であると知り、狭い世界は広い世界であると知り、
一つの世界は限りない世界であると知り、限りない世界は一つの世界であると知り、
限りない世界は一つの世界の中に入ることを知り、一つの世界は限りない世界の中に入ることを知り、・・・
限りなく長い時間はほんの一瞬であり、ほんの一瞬は限りなく長い時間であると知り、・・・
異なる時間の中に異ならない時間があることを知り、異ならない時間の中に異なる時間があることを知り、限りある時間は限り無い時間であると知り、
限り無い時間は限りある時間であると知り、無量の時間は一念であると知り、
一念は無量の時間であると知り、一切の時間は無時間に入ることを知り、無時間はあらゆる時間に入ることを知ろう・・・

要するに仏典とは元々、自然あるいは世界をどう認識し、どう関わるかを提示する。ある意味で認識論のひとつなのだ。その際私たちの心が映す映像(世界モデル)を正確に構成しないで、自分の欲や野心で歪むことにより、苦が生じると言うわけ。その世界が無知蒙昧、偽りの世界。道元も<今、この時>の瞬間に生きること、すなわち<前後裁断>を提唱している。物理的には<今、この時>はまさにディラックのδ関数であり、それに対する反応がインパルス応答(グリーン関数)であり、人生はこのたたみ込み(convolution)なのだ。

悩み多き人は、インパルス応答の時定数が長く、いわゆる「尾を引く」人であり、自由を得ている人は、この時定数が短く、前後が裁断されている。それは「後ろを省みず、前を慮らす」の生き方。そして私たちの神は、永遠の”AM“である。まさに永遠の現在なる方。この方のうちに安んずること、これが私たちの人生である。かつて山谷少佐が指摘されたように(→記事)、「禅の真理契機を完成するキリスト」なのだ。キリストこそまことの実存、ディラックのδ関数の実体であり、その方に対する応答の畳み込みこそが、私たちキリスト者の「生」と言える。

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1 いわゆる教会の歴史は啓示録に予言されている。ペルガモは結婚・結合の意味であり、世とのそれを行った教会だ。そこにはなんとサタンの座があるのだ!

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