新約の聖徒は十戒・律法を守るべき?-そもそも異邦人には与えられていないが、それが何か?不毛な議論を避け安息日の実体なるキリストを楽しめ

昨今でも、ニッポンキ業界では安息日を守れとか、モーセ律法は廃棄されたが、十戒はされていないとか。かまびすしい議論がなされているようですが、結論から言いますと、そもそも十戒(ミツバ)も律法(トーラー)も異邦人には与えられていません。
主はヤコブに御言葉を、イスラエルに掟と裁きを告げられる。どの国に対してもこのように計らわれたことはない。彼らは主の裁きを知りえない。ハレルヤ。-Ps 147:19-20
なのに立派な信仰者になろうとして、あるいは神に受け入れられ、恵みを受けるためにとして、勝手に適用するとパウロの経験したロマ書7章の葛藤に陥るのです。これがクルシチャンです。
これで表題の問いには回答が出てしまいましたが、これだけでは味気ないので、少々蛇足的に解説します。
アブラハムには約束(=女の単数形の種としてのキリスト)が与えられ、それから430年後にモーセを通して十戒と律法が与えられ、約束は律法により無効にされないとあります(Gal 3:17)。

ところがそれ以前にアブラハムについてはこう言われています:
アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めや命令(ミツバ)、掟や教え(トーラー)を守ったからである。-Gen 26:5
この時点では、まだ十戒も律法もないのです! ここでよく読んでほしいが、彼はYHWHエロヒムの声を聞いて従っていたとあります。つまり石板や律法を介することなく、直接に主の声を知覚・認知して、そのとおりに振舞ったのです。石板や律法が与えれたのは、民が聴く能力を失ったからに他ならない。
しかし、その後のイスラエルとユダの民の歴史はよく知るところです。つまり石板も律法はヘブル書に言うとりに何もなし得なかったのです。
さて、十戒とモーセ律法は異なるものであり、廃止されたのは律法であって、十戒は廃止されていないとする向きがあります。が、聖句はこう言うのです:
ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。-2Cor 3:7-8
石に刻まれた文字とは十戒のことでしょう? しかも、これも死に仕える務め、つまりレビ系祭司制度のものと言うのです。ゆえにつぎのヘブル書にあるとおり廃止されたのです。イエスが言われた「世の終わりまでその一点、一画も失われない」というのは、石板に表明されたYHWHの価値観であり、基準意思です。
ところで、もし、レビの系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することができたとすれば、――というのは、民はその祭司制度に基づいて律法を与えられているのですから――いったいどうして、アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるでしょう。
祭司制度に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずです。このように言われている方は、だれも祭壇の奉仕に携わったことのない他の部族に属しておられます。というのは、わたしたちの主がユダ族出身であることは明らかですが、この部族についてはモーセは、祭司に関することを何一つ述べていないからです。
このことは、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられたことによって、ますます明らかです。この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです。なぜなら、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」と証しされているからです。
その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。― 律法が何一つ完全なものにしなかったからです―しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです。-Heb 7:11-19
このチャートは律法は依然有効であるとする再建主義者の論と私の理解を比較したもの。ここでもいのちの木と善悪を知る木の二平面から見る必要があります。

しかもその価値観と基準意思はイエスご自身が全うすると言われ、事実まっとうされました。
わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。-Matt 5:17-18
十戒の石板も最初は民の不信仰によりモーセは砕いてしまいましたが(Exo 32:19)、二度目に刻まれた二枚の石板はアカシア材の箱の中に納められました(Deut 10:5)。アカシア材はキリストの人性を象徴しますが、キリストのうちに石板は納められ、私たちが直接見る必要がないことを意味します。つまり律法の裁きに直接晒されることがないのです!
そして死と復活を経て命を与える霊となられた最後のアダム(旧創造の終焉)にして第二の人(復活の初穂)たるキリストが(1Cor 15:45)、聖霊にあって私たちのうちに住まわれる。さらに御子のうちに御父がおられ、逆も真なりで、父・子・聖霊にいますYHWHエロヒムご自身がわが霊のうちに住まうのです(John 14:23)。かくして私たちはアブラハムが当初、外的に聞いていた声を、内側で聞くことができるのです。
加えて新約においては十戒・律法の上位互換である命の霊の法則が導入されています。SDAでは安息日を厳守すると言うことで土曜日を休みとします。再建主義ではモーセ律法は超民族的存在となり、異邦人にも適用されるようになり、国家もモーセ律法により司法を行うべしとする。どちらもハマルティア。十戒であれ、モーセ律法であれ、レビ系祭司制度のもの、文字に仕える務め、それは廃止されたのだ。代わって導入されたのが超民族的な命の霊の法則(Rom 8:2)。
これが新約です! 多くのクルシチャンたちは旧約と新約では致命的な相転換が起きたことを知らないのです。
この律法を完全に満たされた方が私たちのうちにおられて私たちを通して生きてくださる! キリストご自身が内なる律法の声を実行する力にもなってくださるのです。なぜなら、キリストは私の命ですから!(Col 3:4)
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子
に対するの信にあって(in)です。-Gal 2:20
お判りでしょうか? 御子に”対する”と訳すと私が信じて生きることになります。この節は肉(五感)にあって生きる私は御子の信のうちに生きる、つまり御子の信の領域に私が生きると言うのです。そもそもイエスは律法によらず、命の力により立てられたが、イエスはレビ系ではなく、ユダ族出身でした。つまりイエスがメルキゼデク系大祭司に任命されたのは誓いにより、したがって超律法的措置であったのです。そして命に使える務めをなされ、われわれもその命を分与された祭司なのです。
こういったものは来たるべきものの影である。キリストの身体。-Col 2:17(田川訳)
十戒にせよ、モーセ律法にせよ、キリストの身体の影であると。ヘブル書も同様に
いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。-Heb 10:1
私の信仰を強めてください! 信仰に励みましょう! ・・・といった強迫観念から解かれてください。日本人は特に自家製の”律法”(ねばならない・かくあるべし)を自分に課して勝手に葛藤するのです。聖書はこう言っております:
それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。-Heb 4:9-10
そしてその日とは、別に旧約の安息日(金曜日夕から土曜日夕)のことではありません。
そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、また、先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、再び、神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」とダビデを通して語られたのです。-Heb 4:6-7
キリストは安息日の主であり、まさに今日、その安息にあずかるのが新約の聖徒なのです!

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