性質と働き-深田恭子と藤田朋子の場合
このふたり、今回、実に対照的な転機を迎えている。
深田恭子はややアブナイ役柄を実にかる~くこなしているかのよう見えていた。あの鈴木京香の転機となった『セカンドバージン』でも行君の自己中奥さんを巧みに演じていた。というより、それが彼女自身であるかのようであった。
対して藤田朋子は庶民的な役柄で『渡る世間は鬼ばかり』での長子役が自然にハマっており、こちらもそれが彼女自身であるかのように見えていた。
ところが・・・・
ふたりとも演じていたのだ。それは役割であり、働きであって、自分自身ではない。性質(あるいは本質)の反映ではなかったのだ。だから無理が生じていた。それが役にとどまらず、周囲が期待する自己像に応える言動をしているうちに真の自分を失うのだ。
深田はとても「普通のおばさんに戻りたい」とは言えないだろう。しかし藤田は配偶者を見つけてその役から解放された。彼女はクリスチャンであるとカミングアウトしている。牧師に「具体的に理想的な相手を祈り求めよ」とアドバイスされて祈った結果だそうだ[1] … Continue reading。
なんとも対照的なふたりではある。
今、セレブを共にしているある俳優の方とピアニストの方が、表現者としての苦悩を語ってくださった。自分の力であれこれやっているうちに、真の自分を見失い、表現にも行き詰るのだと。そしてある者はドラッグに助けを求めたりして破滅する[2] … Continue reading。
しかし、自分のテクに行き詰ることは幸いであると。それまでのすべてを失い死を経たのち、復活のいのちを発見し、舞台がまったく違ったものになりつつあると言われる。そう、内なる霊のサブスタンスを解放する媒体として魂と肉体を用いるのだ。
そしてキリスト教もあちこち遍歴したが、いずこも盆栽作りに過ぎなかったと。現在、野生のいのちを見出すことできたと言っておられる(☞エクレシアはオーガニックなモルフォジェネティック・フィールド)。
現状のコロナ禍においてマスクが当たり前になるという考えられない事態となっているが、物理的にも精神的にもマスクを外すことができた人は幸いである。
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