究極の存在とはYHWHのレーマであり、YHWHにあって私たちは神性に満たされる

この映画はデジタル世界とリアル世界の狭間で裁かれる男を描いているが、エクレシアはイエシュアが言われた通り、世にはいるが世のものではない存在(John 17:16)。主の栄光を映しつつ、主の霊により栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられいく生命体である(2Cor 3:17-18)。つまりスピリチュアル世界とリアル世界の狭間に生かされている存在である。ゆえにイエシュアは、わたしというポータルを通って出入りして、豊かな牧草にあずかると言われた(John 10:9)。ちょうど映画『マトリックス』のように、ふたつの世界を行き来する存在である。これが私のいうデュアリティである。
またイエシュアは言われた:
父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。-John 17:21-22
そのためにイエシュアは御名を現わされた。つまりYHWH(=I-AM)はテトラグラマトンとして発音を禁じられてたのだが、イエシュアはそれを「わたしはある」と言われて自ら現わされたのだ(John 8:24;28, etc)。イエシュアとは「YHWH(I-AM)がわが救い」の意味である。御名とその本体であるお方はひとつである。御名の中におかれることはYHWHの中におかれることに他ならない。かくしてイエシュアという名を現わされたのは-
わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。-John 17:26
かくして呼び求める御名はイエシュア(もちろん発音はイエスとかジーザスと異なるが)であり、その名を至る所で呼び求める人々がキリストの体たるエクレシアである(1Cor 1:2,エクレシアの可視的定義)。対して不可視的(霊的)な定義としては、すべてにおいてすべてを満たしている方の充満だ(Eph 1:23)。ここは何度も指摘しているが、「満たしてる場」とか「ところ」ではない! 口語訳はまだ「満たしているもの」と受け入れることができるが。
キリストは満ち満ちた神性が形態化して宿っている神性の充満であり(Col 2:9)、その方はいまやいのちを与える霊となられ(1Cor 15:45)、聖霊にあって私たちのうちに住まう(Col 1:27)。だからエクレシアはキリストの充満であり、よって神性の充満でもある。
For in Him dwells all the fullness of the Godhead bodily; and you are complete in Him, who is the head of all principality and power.-Col 2:9-10 (NKJV)
キリストの内に〔こそ〕神性の全き充満が形骸化して宿っており、あなたがたはキリスト-すなわちあらゆる支配と権勢の頭-にあって満々と満たされているのだから。(ibid 岩波版)
かくしてニッポンキ業界における牧師たちの独特のイントネーションでの「かみっさまわ~」は、ちょうど自分の夫や妻に対して「人間さま~」と呼びかけるようなものである。だから「かみさま」信仰を離脱せよ、ひいては脱キリスト教、セコンド・エクソダスをお薦めしている次第。もはやニッポンキ業界の体質は十分暴露されたことであろう。あ、残りたい人はご自由にどうぞであることは言うまでもないが。

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