電磁場と霊魂の場:シックスセンスの世界へ
著書にも書いたが、今日電波の存在を疑う者は誰もいない。五感では感知できないが確かに存在する。それは物理的サブスタンス。人類はそれをマックスウェルの方程式に従ってコントロールできる。だからスマホやTVが可能なのだ。それらは五感に感知できない電磁場のバイブレーションを音声や映像として五感の領域に現出させることができる。
同じように、霊と魂の場が存在する(☞霊と魂の場@YouTube)。いわゆるオーラとか気とか気配とか言われるパラサイコロジーの現象はこの霊と魂の場のバイブレーションである[1] … Continue reading。その霊的領域と魂の接点がマインドである。私が癒しを受けた状況をよくよく反芻してみると、マインドに映像や言葉がフッと現れ、それをとらえて言語化するとき、身体に現象が現れるというプロセスになる。それは実に明瞭にマインドの中にインプレッションを刻む。
今回のメッセでカイロスとクロノスのことをシェアしたが、神のワザはすべてカイロスにおいてなされる[2] … Continue reading。それは神のシーズンであり(Eccl 3:1-8)、神の時、すなわちNOWである。フェイスはすべてNOW。希望とフェイスを混同するむきがよくある。癒されないのは信仰がないとでも言うのか!と憤る人々は、これを勘違いしている。神はいつか癒して下さるだろう、はフェイスではない!それは希望。
フェイスはクロノスの現象ではなく、つまり五感の領域のものではなく、カイロスのNOWにおける現象だ。すでに得た。これがフェイス。症状があろうが、必要が具体的に満たされていなくとも、それはある。NOWだ!神はI AM!このNOWの領域にタッチすること、これがフェイス。それは五感と時空間を超えるゆえにシックスセンスである。
しかもそれは実に簡単。スマホをいじるのと同じこと。スマホをいじるのに、信じます、信じます、信じます、と念じながらいじる人は誰もいない。操作の手順を間違わなければ良いのだ。簡単なこと。癒しも同じ。それは私たちのアイデンティティー、ポジション、アビリティ、インヘリタンスに覚醒するとき、実に自然に経験できる(☞iPAIの覚醒@YouTube)。
霊と魂の場におけるバイブレーションに共振し、そのサブスタンスを受信できるか、否か。いのちの成長の度合いとか、人格が云々とか、経験があるとか、聖書の解き明かしができるとか、そんなこととは一切関係ない。スマホも別に説明書など不要。それと同じ。ただひとつ言っておけば、「信仰」とか「信じる」という単語を日本語で理解してはならない[3] … Continue reading。それはシックスセンス。まったく新しい領域の経験なのだ!
References
↑1 | 鈴木大拙が『善と精神分析』において、柳生但馬の経験を紹介している。ある春うららの日、但馬が桜に見とれていると、ふと背後の殺気を覚えた。振り返ると、お小姓が控えているだけ。但馬は「解せん」と、不機嫌そうな顔。それを見たお小姓が訳を尋ねると、但馬が理由を打ち明けた。するとお小姓が「申し訳ございません。実は、いくら殿が剣の達人でも、今打ち掛かったら、かわせまいと心の中で思った次第です」と。それを聞いて但馬、理由が分かり、ご機嫌だったとのことだ。ジーザスも霊によってパリサイ人らの心を読んだ(Mark 2:8)。これはまさに霊によるシックスセンスである。 |
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↑2 | クロノスとは時計の時間、つまり物理的時空間における時間。カイロスとは神の時間、それは永遠の領域。神のわざは天地創世の時にすでに完成しており、十字架もすでにその時にあったのだ(Heb 4:3;Rev 18:13)。 |
↑3 | 信仰なる日本語の最も致命的な欠陥は、神を信じるとか言い出す点。マルコ11章22節の「神を信じなさい」は完全な誤訳。「神のフェイスを持て」だ。ガラテヤ2章2節の「御子を信じる信仰によって生きる」も誤訳。「御子のフェイスによって生きる」だ。対格と属格を完全に無視している。日本語マトリックスで日本語聖書を読むならば、容易に偽りに陥るのだ。 |
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