iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ
タグ: エロヒム属

すでに書いた記事群とかぶるかもしれないが、重要な論点なので繰り返しておく。前に次のような記事を書いた:
人類の悲惨はすでにYHWHエロヒムの型と様に創造されており、あとはいのちの木(非受造のZOE)の実を食すれば、ちょうど手の型と様に作られた手袋に実体なる手が入るように、アダムは完成されたはずだった。しかし蛇はその”すでに”に対して疑問を持たせ、善と悪を知ることによりYHWHエロヒムのようになれると誘惑したのだった。サタンは常に不足を訴える。対してスピリチュアル・リアリティに生きるフェイスは満足を得る。
キリスト教なる宗教はつねに、もっときよく、もっと善行をなし、もっと信仰に励み、もっと奉仕をし、もっと伝道し、もっと大きな会堂を建て、もっと、もっと・・・とニンジンを鼻先にぶら下げられた馬のごとくに煽るのだ。それはまさに善と悪の知識の木の道にある宗教マトリックスである。

モーセを通して律法が与えられたが、これも善と悪を知る道の上においてであった。それはアブラハムに種(単数形)の約束が与えられて430年後であり、その約束は律法により無効とされなかった(Gal 3:16-17)。すなわちYHWHエロヒムの意図は当初より、律法ではなく種=キリスト=にあったのだ。そのキリストはご自身の肉体を裂いて封鎖されていたいのちの木への道となられ(John 14:6;Heb 10:20)、フェイスする者はこの道へリープ(跳躍)する。すると律法ではなく、いのちの御霊の法則が働き、この新しい法が内在化されてそのうちに生きるとき、律法の要求は自ずと満たされる(Rom 8:2-4)。
ある人が言っていた:地獄への道は人の善意で舗装されている、と。この点、あのオウム事件で活躍した上祐史浩氏が面白い指摘をしている。
「ストイックな価値観・生活をしたいと考えている人は一定数いるが、しかし、今の若者たちがそんな修行に耐えうるかと考えると、やはり時代が変わり宗教の必要性は薄れているのだろう」
「人類の脳構造から、善悪の概念を考えすぎると、悪を正して善を行うという善悪二元論が生まれる。しかし、それは時に逆転して、戦争が正当化されてしまうことさえある」
「“自分が善人になりたい”という過度な欲求を持ちすぎない方が良いのだろう」
この「自分が善人になりたい」という過度な欲求こそキリスト教をはじめとする宗教の動機である。それはすなわち不足の感覚。自分の状態がどうであるか、これが神に受け入れられる測り縄と勘違いしているのだ。プロテスタントの根本的誤りは自分をセンターにおいて、「律法を行うことによるのではなく、御子を信じる信仰によって救われる」と説く。主語は誰か? そう、私である。よって常に自分の信仰、自分の正しさ、自分の信条、自分のきよさ、自分の忠実さ・・・と絶えず自分を外なる法(しばしば聖句)に照らして測り続ける。自分が恵みから落ちていることに気が付かないのだ。
恵みとはそれに値しない者が無代価で得ることができるものである。それは自分から意識が離れるときに働く。
しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。 律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。-Rom 5:15-21
ここには「私」の要素は全くない。ロマ書7章と比べてほしい。7章においてパウロは律法を行いたいとする思いの法則に従って私がしようとすればするほどできないと叫ぶ。ゆえに罪々を犯すのは私ではなく内なる罪であることを見出し、罪と死の法則に拘束されていることに気づく。この三種類のLawsにパウロは閉じ込められていた。そして彼は叫ぶ、誰がこの死の体から救ってくれるのか?と。
ついに8章に至り、彼はいのちの御霊の法則が彼を罪と死の法則から解放することを見出す。それ以降、彼の文章には「私」がどうのは出てこない。まさに私がどうのこうのではなく、法則が彼を引き上げるのだ。
私(セルフ)からの解放-道元はいのちのレベルこそ異なるが(彼はアダムのいのちのレベルである)、こう言っている:
仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
自己から離れ法に委ねることを心身脱落と言う。そして
人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり。
初信者は法を外に求めてその周囲をぐるぐる回るだけだが、法と一体となりその中に生きるようになるとき法がその人になってくれると言う。法の実体とはまさにキリストである。ゆえに―
生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子の(属格)信(フェイス)のうちに(en)生きているのである。-Gal 2:20[1] … Continue reading
かくしてパウロはキリストとエクレシアを同一視する。
そしてこう証しする―
わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。-Phil 1:21
キリストのために生きるのではない。生きることそのものがキリストなのだ! それはいのちの木の路線にあってスーパーナチュラルに生きること(上図参照)。
この時、善と悪の感覚が洗練され、キリストの判断が私の魂のうちに再現する:
固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。
-Heb 5:14
感覚はもちろん生命現象であり、これは上祐氏が指摘するように、しばしば倒錯へと至る善と悪の概念などではない。YHWHエロヒムの的を得た感覚による判断である。対して、たとえ人間的に善と見えるものであれ(例えばPCなど)、YHWHエロヒムの基準にハマらないものは罪である。人は肉によっても善をなし得るのだ。これがキリスト教を含む諸宗教である。
善と悪を知る知識の木の実を摂る誘因は、「神のようになれる」という蛇のささやきであった(Gen 3:5)。この誘惑は今日においても強い。カルトへの誘いもここにあることを上の上祐氏との対談相手もこう指摘する:
人間の深層心理や善悪二元論の盲点については、統一教会問題みならず現在の世界が抱えるさまざまな課題に通じるものがありそうだ。また、酒生氏は住職としての立場から「人間が自分自身を神だと拝ませる“偶像崇拝”にも問題点がある」と指摘。文鮮明や池田大作のようにカリスマ性と絶対的な権力を持つ創始者がいると「盲信・狂信の信仰に陥りやすくなる」と断じた。
この誘惑に対してニュークリーチャーであるわれわれはいかに対応すべきであろうか。回答はすでに明らかであろう:
わたしたちはYHWHエロヒムの型と様に従って創造されており、しかもいのちを与える霊となられたキリストが聖霊によって私の実質として内住され、すでにエロヒム属とされているのだ。
宗教の誘惑は「まだこれから」モード、フェイスは「すでに」モードである。Not-Yet-modeからAlready-modeへの転換こそ、まことのメタノイア=思い改め=である。

科学と宗教[1] … Continue readingの関係を議論するとき、人々はしばしば二極化した立場を取ります。 彼らは信じるか信じないかのスタンスを取ります。 多くの悲しみは、どちらか一方が間違っている、または無意味であると主張することから生じます。
実際、宗教と科学は重なっています。 それらは、人々の心、人生の選択、そして社会が直面する困難な道徳的課題の中で交差しています。 困難な生活の中でアイデンティティと目的の感覚を求めながら、何十億もの人々が多様な信仰に従っている世界で宗教の力を厳しく否定することは、ひどく素朴で、率直に言って残酷です.
いわゆるか科学万能の時代に「神」とか「霊」とかは迷信とする立場は本当の科学を知らない[2] … Continue reading。逆に聖書と科学は矛盾するといった聖書原理主義者は聖書の真の意味を知らない。いずれにしろ、われわれニュークリーチャー・エロヒム属は物理領域と霊領域の双方に生きる存在としてマージナルにしてデュアリティな者なのだ。主と同じに世にはいるが世のものではない(John 17:11-16)。
And no man hath ascended up to heaven, but he that came down from heaven, even the Son of man which is in heaven. –John 3:13
天から下って、天にいる者? そう、これがデュアリティ。量子ですら、あちらにあるし、こちらにもあるのだ。そして私たちは地上にいるが、同時にすでに―
罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、-あなたがたの救われたのは恵みによるのですーキリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。-Eph 2:5-6
地上に生きるがすでにキリストと共に御座におる存在(これから天国に行くのではない)。キリスト教はこれからモード、フェイスはすでにモードである。
問題はこの”信じてること”が狂うと人生を失う。昨年コロナで亡くなった再建主義の富井氏は、生き方にはリスペクトするも、その信奉していた『再建主義』については狂気を感じていた。彼はまさに、何を信じて、何に殉じたのであろうか? ニッポンキ業界のボクシの教えとかマジ受けすると彼らと同じ末路を辿る。
純粋な御言葉を食べ飲みすること、キリストのボディコンシャスに生きること。
これが若さと健康の秘訣。つねにその”こと”=belief=を御言葉と照合するのを欠かさないことが大切である[3] … Continue reading。自らの思いを刷新し(Rom 12:2)、キリストに服させること。

わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき・・・2Cor 10:4-6
これはロマ12章のメタモルフォーシスの成就である。
References[+]
↑1 | これは機械翻訳なので、本当は霊性とでもしたい単語だが、五感を超えた存在を扱うのが宗教との理解で書かれているので、「信仰」なる単語も含めてそのままにしておく。 |
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↑2 | ID理論などで分かるとおり、宇宙の法則の神秘や精緻なDNAの構造などを知るとき、誰かがデザインしたと思わざるを得ないのだ。サイエンティストの「神」はまだ理神論の神(スピノザの神)であるが、最先端では存在の理由を追求せざるを得ないのだ。 |
↑3 | ギリシャ語やヘブル語を母国語としていないわれわれには限界があるが、できる限り邦誤訳は避けて、原意をくみ取る努力をすることが大切である。最低限、英訳のKJVは参照すること! |

現在、天皇家が揺るがされている。KKさんの件はさておいても、女系天皇を認めるべきや否やと。現代、男女同権の時代にあっては女系を認めるのはなんら問題ではないとするむきもある。天皇というポストがあって(あの美濃部達吉の天皇機関説のように)、そのポストに誰が座ってもいいではないかと言うわけだ。が、ここで問われていることは、王朝の問題なのだ。現在、事実はともかくとして、天照大神から五世孫である神武初代天皇のY遺伝子が父系により連綿と継承されていることに天皇家のアイデンティティの本質がある。

かのダビデ王朝もソロモン以後分裂し(BC931)、北はヤロブアム、南はソロモンの子レハベアムを王として南北朝時代に入る。ここで大切な点は北王国は血統が入れ替わっているが、南王国はダビデ系の一系王朝なのだ。主がダビデに永遠の王権を保証されたゆえである(2Ch 13:5)。
このことをもって、現代においても唯一の王朝を維持している天皇はダビデの子孫であるとするむきもあるが、それはおいといて、ダビデの王権はダビデの子ジーザスによって永遠に継続されると解するのが普通である。ここでもポイントはY遺伝子の連続性[1]もちろん霊的な意味である。ちなみにマタイの系図とルカの系図はそれぞれヨセフとマリアの系図である。。
重要なのは今回のメッセでも語ったが生まれの問題である。われわれはYaHaWeHエロヒムの霊的DNA(ロゴス)を内に内在化また生成されて新しい復活の初穂として父により生み出された(James 1:18☞エロヒム属の誕生)。われわれの内にはYaHaWeHエロヒムの種が宿されている(1John 3:9)。われわれは、正確にはわれわれの霊はYaHaWeHエロヒムから生み出された(John 3:5)。ゆえにYaHaWeHエロヒム・ジーザス系の家系あるいは王朝に生まれた存在である。それは父系王朝である。
エロヒムについての白いキリスト教の誤解によりいわゆる西方キリスト教神学が組織されて、現在のキリスト教が構成されているが、それはすでにヘブル語のマトリックスから逸脱していることは何度も指摘している。われわれの霊はエロヒムの霊であり、そのうちに聖霊だけではなくYaHaWeH(父・子・聖霊)が内住されている(John 14:23)。父は子の中に、子は父のうちに、そして子はわたしたちの内に、わたしたちは子の内に、したがって父のうちにおり、父もまたわたしたちのうちにいます。これをペリコレーションと称するが、ちょうどこの図のような感じである。

譬えれば、磁石を飲み込めば磁石は私の内にある。しかし磁力線は図のトーラスように私を包み込む。人体そのものがトポロジカルにはトーラスである。これはオーラともいえる。私たちの内にいますYaHaWeHエロヒムの発散する霊の力線が私たちを包むのであり、これが私たちのオーラとして発散する。これがいわゆる臨在の中に生きることだ。これはおのずと人々に何らかの感化を与え、わたしたちが父に愛されていることを証明する。
父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。-John 17:21-23
旧約においても主はご自分の民を分離の民と呼んでいる。
わたしは、わたしの民とあなたの民との間を区別して、救いを置く。あす、このしるしが起こる。-Exo 8:23
ここの「区別して」と訳された原語は”פְּדֻת”、ピクトグラムとして読むと、ぺー=開かれた口;ダレト=門;タウ=十字架である。すなわち十字架にあって開かれた門であり、その門の内と外が分けられている。門とはもちろんジーザスである。これから「贖い」の意味も生じる。つまりわれわれはポータルなるジーザスを通った民であり、世の民とは区別されているのだ。罪赦された哀れな罪人などではない。もちろん旧い体には罪(Sin)が残るゆえに罪(sins)も犯すが、これは五感のパフォーマンスの問題。霊的アイデンティティは義とされ、聖とされ、完全とされているのだ(Heb 10:10-14)。
しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。-Heb 12:22
かくしてロゴスをギノマイ(ginomai)された者はエロヒムと呼ばれる(John 10:34-35)。またわれわれはI-AMを通して定義された存在である(☞われわれは特異的な民、その意味は?)。ポイントは何を継承しているか。麦粒がまかれたら麦がなる;キリストが撒かれたら、・・・・もちろんキリストがなるのだ(Gal 4:19)。われわれはいのちを与える霊となられたキリストを(1Cor 15:45)、いわば受胎し、わが霊をいわば霊的子宮としてその種を育てている。エクレシア(召衆と呼ぼう)とは神の畑である(1Cor 3:9☞エクレシアはオーガニックなモルフォジェネティック・フィールド)。
もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。-Rom 6:5
この「一体」と訳された原語は”sumphutos”、”sum(with)”+”phuto(grow;geruminate)”であり、KJVでは”planted together”と訳されている。つまり我々の内に置かれたキリストが発芽して成長することわれわれはシェアするのだ。かくしてエロヒムが増殖する(Col 2:19☞エロヒムの増殖)[2] … Continue reading。
よく氏より育ちと言われるが、神武王朝とジーザス王朝に関しては、育ちよりも氏なのだ。

今回、おかしな言動をとってしまったテニスの大阪なおみが自身の鬱病をカミングアウトした(☞彼女のコメント)。またフィギュアの長洲未来が同じく鬱と適応障害であったと。
芸能界だけでなく、スポーツ界においても性質と働きの葛藤があるわけ。彼らは自分をぞうきん搾りのようにギリギリまで追い詰める。
かつて真央ちゃんが登場したころ、彼女はくるくると自由に滑っていた。滑ること自体が楽しかったと本人も言っていた。が、周囲の期待値が上がるごとにその喜びは消え、成績を求められるだけで、プレッシャーを受けるようになったと。
性質が置き忘れられ、働きだけを求められること。これは辛いだろう。
ニッポンキ業界のボクシたちも鬱病者が実に多い。日本基督教団では、精神障害を持つボクシのケアをどうするかといったセミナーまでもたれている。彼らとてもバプテスマを受けたころは喜びにあふれていたのだ。それは新しい生命にある性質である。
ところがボクシ按手とかのポジションを得て、役割を担わされると働きが求められる。ここで性質から働きへと強制される。「主に仕える」とかが性質でなく、とってつけた役割だから。
しかし、YaHaWeHエロヒムはMORE THAN ENOUGH。エロヒム族はすべてを余剰価値、つまり余った分でこなすのだ。ぞうきん搾りの悲喜劇からエクソダスせよ! なぜなら12のかごはパンくずで満ち溢れているから。われわれ異邦人は机の上からこぼれるパンくずで十分なのだ。否、主の恵みのパワーは十分を超えるのだ。
すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。-Matt 14:20

プロテスタントは自分をセンターにおいて、私が律法を行うことではなく、キリストを信じることにより救われると説く(☞ルターの誤り)。その中心は自分。ゆえに私の信仰をもっと強めてくださいと求め、また逆境を経た人の信仰は素晴らしいと褒めそやす。ここにあるのは私だ。これをセルフ教と呼ぶ。よってキリスト教徒は常に私の状態が気になる。だからあゆみが安定しない。「アイ・マイ・ミー・マイン」のマトリックスに幽閉されている。
対して聖書(邦誤訳を当てにしないこと!)は何というか。
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた御子のフェイス(信)のうち(in)です。-Gal 2:20
私は生きていない、が、肉において生きている私がいる。その私は御子のフェイスにあって生きているのだ。この私は「肉にある」、すなわち五感における私である。具体的には体(soma)と魂(pshche)としての私である。
フェイスはスピリット(霊)である(2Cor 4:13)。使徒信条告白~、われはナントカを信ず~、といった式文ではない。そのフェイスは御子のフェイス、すなわち御子の霊のうちに肉にあって生きる私が生かされている。いのちを与える霊となられたキリスト(1Cor 15:45)、御子のフェイスが私の霊の中で働き(エルゴン)、霊のうちから魂のうちへ、さらに死ぬべき体の中へとペネトレーションして(☞聖霊のペネトレーション)、私たちの肉において御子が現れる(☞聖霊は腹から流れ出る)。私の魂はナチュラル(五感)領域にある肉体とスーパーナチュラルな領域の霊の狭間にあって、つねにどちらのバイブレーションによってドライブされるかの選択を迫られている(☞デュアル・ワールドに生きる)。
神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。-Rom 8:9
本来、この肉体はニュートラルである。ゆえにパウロはこう勧める:
このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと仕分けしなさい。 従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。-Rom 6:11-13
不義の道具として罪に委ねるか、義の道具として主に捧げるか。ボディをいかに管理するか、このところのメッセでも語っている通りである。私たちの責任はここまでである。いったん御霊に委ねれば、自動的にスーパーナチュラルな御子のフェイスがオンとなり、そのフェイスが私たちの魂と体をとおしてワークアウトされる(☞フェイスをワークアウトする)。私たちキリストの体はキリストの体性メモリーで生きるのだ。フェイスは私のものではない!
同様に義も聖も私のものではない。
神によってあなたがたはキリスト・イエスのうちに置かれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。-1Cor 1:30
この「なられた」は”ginomai”である(☞”ginomai”の秘密)。ヘブル語の”Haya”(I-AM)と同様に、存在・生成・活動を意味する(☞アバンダント・ライフへのポータル=ジーザス=)。現在、キリストは肉体の束縛を解かれて、いのちを与える霊となられた。
「最初の人アダムは生きる魂となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。-1Cor 15:45
ここの対比は重要。最初のアダムは物理領域に生成されたナチュラルな存在、最後のアダム(=キリスト)は霊の領域に存在するスーパーナチュラルな存在とされたのである。今やその霊と私たちの霊はひとつである。
しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。-1Cor 6:17
ここの「結びつく」は”kallao”、英語で”glue”である。私たちの霊と主の霊は離れがたく接着されている。ゆえに私たちの霊はすでに完全である。
天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊-Heb 12:23
この霊はエロヒムの霊、この霊を受けたものはYaHaWeHエロヒムの霊的DNAを組み込まれたニュークリーチャー。この霊こそが新しいアイデンティティであり、これからすべての天的なものが流れ出るのだ。聖も義もフェイスも、あらゆるYaHaWeHエロヒムのすべてがそこにすでにある。その方はHAYA ASHER HAYA=I-AM THAT I-AM=であるゆえに。そのI-AMが私にとってのXとなられる(ginomai)。ゆえにI-AM THAT I-AM X。このXに私たちのあらゆるニーズを代入することができる(☞I-AMのパワー)。これが「わたしの名にあって祈り求める」の意味である。
十字架はこのソースの切り替えの場である(☞十字架って何でしょう)。すでに終わったアダム系の私の痕跡が魂と体に残るゆえに、これを溶かされ、あるいは砕かれ、マインドがトランスフォームされるほどにキリスト系の新しい私(=霊)が体と魂を支配する。カギはマインドのリニューアル、私の言う霊感情観念複合体の解消にある(☞霊精神身体医学)。
肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。-Rom 8:5-6
自分のナントカに絶望した人は幸いである。自分のカントカをナントカしようと信仰に励む人々がキリスト教徒、あるいはクルシチャンである。真のフェイスは絶望から生まれる。なぜならすべては私のものではなく、キリストのものが私において実体化されるからだ(☞神をエミュレートする)。
いま、フェイスとは願われるサブスタンス、まだ見ていないことのエビデンスである。-Heb 11:1(私訳)
キリスト教なる宗教体系、マトリックスをエクソダスし得た者は幸いである。残りたい向きはご自由にどうぞではあるが。

「地を治めよ」(Gen 1:28)-この原初的委託を今の経綸においていかに成し遂げるのか。いつもの再建主義の富井氏の論は次の通りである。
それは風呂場が神の国であり、その中のカビのコロニーがサタンの領域で、それをカビキラーで駆逐するようなものであると・・・。
さて、聖書はいかに語るか-
【賛歌。アサフの詩。】エロヒムは神聖な会議の中に立ち/エロヒムの間で裁きを行われる。
「いつまであなたたちは不正に裁き/邪悪な者の味方をするのか。〔セラ
弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。
弱い人、貧しい人を救い/邪悪な者の手から助け出せ。」
彼らは知ろうとせず、理解せず/闇の中を行き来する。地の基はことごとく揺らぐ。
わたしは言った/「あなたたちはエロヒムなのか/皆、エルヨンの子らなのか」と。-詩編82:1-6
エロヒムは霊的生命体の総称であることは何度も繰り返している。いわゆる白いキリスト教はこの概念を取り違えていわゆる一神教を生み出した。エロヒムは生物の分類の「ドメイン」とか「属」とか相当するメタ概念であり、その最も高きエロヒムがありてあるYHWH (EHYAH ASHER EHYAH) である。この詩編ではElyon (The most High)とされている。

この神聖な会議にはエロヒムが参加している。裁定を行うのはYHWHである。そしてわれわれエロヒムの霊をインプラントされて、エロヒムから生み出されたニュークリーチャーも参加するのだ。われわれ(の霊)はすでに栄光化されたエロヒムの霊。文字通りのYHWHエロヒムの子供である[1]われわれはエロヒムとして同じ生命をYHWH(父・子・聖霊)とシェアしている。が、YHWHとはパースンとしては異なることはすでに何度も述べている。。

天とは霊的領域であり、そこには諸々のエロヒムが存在する。地とはこの物理的五感の領域であり、霊的領域のリアリティーを<今・ここ>に実体化するパワーがフェイスである。そこで主は天を裂いて地に介入された(Mark 1:10)。すでにソドム・エジプト化されたキリスト教の「エロヒムの概念」を文字通りメタノイア(マインド・シフト)する必要があるのだ。オリジナルな聖書の啓示はマルチ・エロヒム・ワールドである(エロヒム自体が複数形)。
イエシュアは詩編82編を引用して言われた-
イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたはエロヒムである』と書いてあるではないか。
エロヒムの言を託された人々が、エロヒムといわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない)
父が聖別して、世につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか。-John 10:34-36
ここの「託された」とある原語は”ginomai”であり、存在せしめる・内在化するの意味である。すなわちYHWHエロヒムの種(霊的DNA)を組み込む(infusion)ことに他ならない。
御父は、御心のままに、真理の言葉(ロゴス)によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。-James 1:18
肉から生まれるのは肉であり、霊から生まれるのは霊である。-John 3:6
神から生まれた存在は皆、罪を犯しません。神の種(sperm)がこの内にいつもあるからです。これは神から生まれたので、罪を犯すことができません。-1John 3:9
つまりわれわれ(の霊)はエロヒムの種を組み込まれており、われわれ(の霊)はエロヒムである。自分のアイデンティティーをしばしば肉(=体と魂とその在り方)においているのが、キリスト教徒である。これで再建主義のように、メーソンやイルミナティの陰謀を祈りによってモグラたたきのように駆逐することに追われるのだ。
エロヒム属としての統治の仕方は、まさにこの神聖な会議において開始される。この決議あるいは裁定を地において執行するのだ。別にわれわれがリキを入れて反逆の霊ども(彼らもエロヒムである)と戦うのではない。最も高きエロヒムの裁定を得て、それを宣告するだけ。この天と地はエロヒムの権威のネットワークであり、すべてエロヒムはYHWHエロヒムに服さざるを得ない。
ゆえにイエシュアはこう宣言された-
イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」-Matt 28:18-20
われわれは神聖な会議の参加者(議員)として、このYHWHエロヒムのマトリックスとプロトコルに従って振舞うのみ。するとそれは自ずと現出する。これがフェイスであり、「天に御心がなるとおり地にもなるように」の実際であることは言うまでもない。
いま、フェイスとは願われるサブスタンス(実体・実質)、まだ見ていないことのエビデンス(証明・現出)である。-Heb 11:1(私訳)

前回のメッセで「努力が必要」と言われたが、努力は不要とも言っているけど、これはどう理解すべきかとのお問い合わせがあった。明日のメッセで語る内容とちょうどかぶったので、その内容を少しだけ―
小池百合子の動機はすべて自己粉飾にあり、その根底には満たされていない基本的欲求が潜んでいる。マズローの五段階欲求は有名だが、もちろんこれに霊的欲求は含まれていない。まあ、あえて言えば、自己超越が相当するかもしれないが。

このチャートは借り物だが、下位の欲求が満たれていない場合、上位の社会的あるいは承認欲求をもって埋め合わせをしようとする。が、これはあくまでも外形のものであるゆえに、つねに取り繕いをせざるを得ない。
この根本的な欲求が満たされていない場合、それがコンプレックス(感情観念複合体)となり、その人の生きる動機あるいは動力となることがある。フラストレーションや憎しみをバネにする生き方である。それは常に取り繕いであるために、小池氏のように関係する人々とことごとくトラブルを起こし、真実な人間関係は築けない。
クリスチャンはアダム系のいのち(体-魂複合体)において死んだものであり、キリストと共なる復活により新しい霊のいのち(Zoe)をインヒュージョンされ、新しい霊的パワーの源泉が設置された存在である。
神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。-1Cor 15:10
「今日のわたしがある」とは”I am what I am”であり、テトス2:14(Titus 2:14)にある”peculiar”に対応する言葉である(☞われわれのアイデンティティーはI-AMの領域で定義される(テトス2章14節))。詳細はメッセにて。
さて、ここでパウロは「働いたのはわたしではなく、共にある神の恵みである」と証しする。「共にある」は”sun”であり、恵みは”charis”、ヘブル語では”chen”である。ピクトグラムはヘトはテント・壁の意味、ヌンは種・子孫・継続の意味である。すなわち恵みとは、テント(壁)の中で種が永続することである。
ポイントは何か。ガラテヤ2:20にあるとおり、生きているのはもはやわたしではなく、キリストである。今、肉にあって生きているわたしは御子のフェイスにあって生きるのである。この新しいエロヒム属の霊の中に聖霊によりYHWHが住まわれる(John 14:23)[1] … Continue reading。
主は言われた、
わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。-John 14:18-19
お分かりだろうか。ジーザスが生きるので私たちも生きる、つまり、私の古いアダム系のいのちのエネルギーによるのではなく、キリスト系の新しいいのちのエネルギーによって生きるのだ。ここにいのちの交換が行われる。その場が十字架である。
この時、聖霊の伝達されるYHWHエロヒムのいのちのエネルギーが私の生きる力の源泉となる。
それは、わたしの民が二つの悪しき事を行ったからである。すなわち生ける水の源であるわたしを捨てて、自分で水ためを掘った。それは、こわれた水ためで、水を入れておくことのできないものだ。-Jer 2:13
YHWHの力あるいはフォースには四種類があることは前にも語っている(☞Yahawehのフォースは4種類ある)。このフォースが私の生きる原動力となる。このフォースが私の霊の内から流れ出て、私の魂と体を通してアウトプットされる。これがクリスチャンのいわゆる働きとなるのだ。決してアダム系のいのちのパワーによるのではない。それはむしろYHWHの業を阻害する。
事実、ジーザス自身もそのようにして生きた。
わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。-John 14:12
彼は父を生きる原動力としてその業を行った。ゆえに-
つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。-Acts 10:38
彼はあくまでも人として振舞った。神として振舞ったのであれば、どうしてその業の理由を「神がご一緒だったから」と言えるのか。つまり彼の業は内なる聖霊による御父の働きの現出であったのだ。
御子は神のサブスタンスの現れであり(Heb 1:3)、神性が余すところなく形をとってそのうちに住んでいる(Col 2:9)。その方は今やいのちを与えれる霊として聖霊にあって私の内におられる(1Cor 15:45)。よって私たちエクレシアはキリストの充満である(Eph 1:23)[2] … Continue reading。
かくして私たちの生きる原動力はいのちなるキリストそのものであり(Col 3:4)、キリストは御父の完全なる表現である(John 14:7)。私たちが「かみっさまのために何かをするとかしない」とかではない。私たちが「かみっさまの御心に従って生きるとか生きない」とかの問題でもない。生きる原動力が何かである(☞信仰と精神分析について)。
わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。-Phil 1:21
かくして私たちというテント(壁の中)において、撒かれた種であるキリストが増殖するのである。まことにエロヒムの増殖を増殖するとあるとおりである(Col 2:19)。
Exchange the Power Source!


- MSGタイトル:スペシャル・レクチャー:エロヒム属の新しい時代II
- 引用聖句:John 10:34-35;Ps 82:1-5 etc.
- 2020年5月31日(日)のセレブ
・場所:ハロー会議室石川町元町
・時間:13.00-17.00 - プレイヤーMTG:
ハロー会議室石川町元町(しばらくお休み) - セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。あるいはメールにもOKです。

TODAY’S CELEBRATION May 17, 2020:モルフォジェネティック・ネットワークに植え込まれる
MSGタイトル:モルフォジェネティック・ネットワークに植え込ま …
- MSGタイトル:モルフォジェネティック・ネットワークに植え込まれる
- 引用聖句:Gen 1:28;Col 2:19;John 10:34-35;3:6;James 1:18;1Pet 1:23;Rom 6:5;1Cor 3:9;Gal 4:19;Rom 8:28-30 etc.
- 2020年5月31日(日)のセレブ(隔週実施を予定)
・場所:ハロー会議室石川町元町
・時間:13.00-17.00 - プレイヤーMTG:
ハロー会議室石川町元町(しばらくお休み) - セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。あるいはメールにもOKです。

- MSGタイトル:スペシャル・レクチャー:エロヒム属の新しい時代 I
- 引用聖句:John 10:34-35;Ps 82:1-5 etc.
- 2020年5月17日(日)のセレブ(隔週実施を予定)
・場所:ハロー会議室石川町元町
・時間:13.00-17.00 - プレイヤーMTG:
ハロー会議室石川町元町(しばらくお休み) - セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。あるいはメールにもOKです。

ヘブル11章はいわゆるフェイスの定義と旧約の偉人のリストである。
いま、フェイスとは願われるサブスタンス、観ていないことの現出である。-Heb 11:1(私訳)
そして旧約の偉大なキャラクターのリストが続く・・・。
が、最後にこうある-
ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。-39-40節
お分かりだろうか? 彼らは私たち(=新約のニュークリーチャー)によって完全とされるべきなのだ! 判断の基準は彼らのなした業によるものではない。生まれの問題である。
御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。-ヤコブ1:18
この「生む」は”apokueo”、その意味は(Strong)-
to breed forth, that is, (by transformation) to generate (figuratively): – beget, bring forth.
これは生命現象である。われわれはニューブリード、新しい生命体なのだ。すなわちエロヒム属である。
あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちはエロヒムである』と書いてあるではないか。神の言葉(ロゴス)を
受けた内在化された人たちが、『エロヒム』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。-ヨハネ10:34-35
ロゴスは種、”sperma”、精子、すなわちDNAである。
あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉(ロゴス)によって新たに生まれたのです。-1ペテロ1:23
神から生まれた
人すべては皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。-ヨハネ3:9[1]生まれた「人」とすると罠に落ちる。この原語は”pass”、生まれた「すべて」はである。それは霊である。
これはYahawehエロヒムのDNAがわれわれの霊のうちにインヒュージョンされたことであり、われわれの霊とはYahawehの霊が分かち与えられたものである(☞神の遺伝子工学@YouTube)。
神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。-1ヨハネ4:13
かくしてこの生命現象にあずかることは旧約の聖徒が経験し得なかった、新約に生きるわれわれの特権なのである。われわれはヘブル11章にリストされた旧約の偉大な英雄たちよりも偉大な存在である! 主ご自身がそれを証しされている。
はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。-マタイ11:11
旧約の偉人たちは女から生まれた者である。新約のわれわれは神から生まれた者である。アイデンティティの意識をトランスフォームせよ! われわれは罪赦された哀れな罪人などではない[2] … Continue reading。われわれは新しい生命体、ニュークリーチャー、ジーザスと同じDNAの生命(Zoe)をシェアするエロヒムである!(☞エロヒムの増殖) だから主はわれわれを兄弟と呼ぶことを恥とされないのだ(Heb 2:11)。
エロヒムの増殖を増殖する。-Col 2:19(原語)

先に再建主義者の富井氏の理解は経綸的な理解に過ぎないと指摘したが、今回見事にそれを立証して下さった。この発言は致命的に重要。本質的な霊の生命の誕生、そして霊的実質と魂・体複合体としての肉の相違を見ていないのだ。だから必至で律法を守れ~とやるわけだ。
これで再建主義者の本質は見抜けたと考える。
誰でもイエスを主と告白する人(クリスチャン)は、イエスにあって神の子であり、イエスにあって罪人ではありません。
私も同じです。
しかし、私はクリスチャンとなった後でも罪を犯します。
ですから「実質」罪人です。自分の本質には変化はありません。
ただ、「法的な立場」が変わったに過ぎないのです。
私は、「キリストにあってのみ」 神の子であり、義人です。
もしキリストへの信仰がなければ、私は、ノンクリスチャンと同じです。
警察官が警察を辞めたら普通の人に戻るのと同じです。
警察官に権力があるのは、「法的な立場が付与された」からです。
クリスチャンになったら、「キリストなしでも、実質的に神の子・義人になった」という立場は、キリスト教ではありません。
元警察官が警察官と同じように国家権力を振るえないのと同じです。
本質的アイデンティティと物理的領域におけるパフォーマンスの違いだ。アダムとエバもいわゆる原罪は持っていなかったが、誘惑により罪を犯したのだ。すなわち罪を犯す否かは本質を決定しない!

こういった表現をすると、いわゆる白いキリスト教神学で洗脳されている人々は違和感を覚えることと思う。が、これは御言葉そのものである。先にコロサイ2章19節を紹介している。通常はこう訳される―
このかしらから出て、からだ全体は、節と節、筋と筋とによって強められ結び合わされ、神に育てられて成長していくのである。 -Col 2:19
原文はこうだ―
神の成長を成長する(田川訳&岩波訳注) ※あるいは、増殖する
YHWHエロヒムが増殖するのだ!さて、このタイトルの御言葉はどこか?ピリピ1章20節である。通常はこう訳されている-
そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。-Phil 1:20
田川訳ではこうなっている-
キリストが私の身体において大きくなることである。
「おいて」は”en”、すなわち”in”である。「大きくなる」は”megaluno”、Strongによるとこうある:
to make (or declare) great, that is, increase or (figuratively) extol: – enlarge, magnify, shew great.
原義は「増殖する」ことだ。比喩的に「崇められる」ことである。すなわち私のボディの中でキリストが増殖する・増し加わることである。キリストは種として私の心(霊)のうちにまかれた。麦の種が撒かれたら麦がなる。キリストが撒かれたらキリストがなる。心はその種を育てる培地であり、子宮である。子宮すなわちマトリックスである。キリストがうちに育っているのだ。
あなたがたの内にキリストの形ができる-Gal 4:19
「形ができる」とは”morphoo”、英語では”form”である。受精卵が分裂し、分化して各器官や肢体が形成されるように、キリストが形作られるのだ。この時、私たちの思い・感情・意志はキリストのそれを反映する。キリストの思い・感情・意志が私たちの魂において再現するのだ。体はそれに従って機能する時、主の御心が私の体を通して物理的領域へと現実(実体)化される。これがフェイスである。
いま、フェイスとは願われるサブスタンス、まだ観測されていないことの現出である。-Heb 11:1(私訳)
まことにこのとき、「天に御心がなるとおり、地にもなるように」との祈りが成就する。
かつてのマリアは物理的に聖霊によりジーザスを受胎して、その子宮の中でジーザスが育てられ、時が満ちると物理領域に産み出された。今、私たちは霊的にジーザスを受胎し、私の心のマトリックスの中で形成され、いずれこの肉体をも脱ぎ捨て霊の体に変えられるとき、内なるキリストが出現する。
愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。 -1John 3:2
「似る」とはちょうど手袋のようなものだ。元々人(アダム)はYHWHエロヒムのファントム(外形)とライクネス(似姿)に従って創造された(Gen 1:26)。その空の手袋に実体である手が入るとき、手袋は手の栄光を現す。われわれは実体であるキリストがうちに育つとき、キリストの栄光を現すのである。エロヒム属として![1] … Continue reading

- 2019年9月8日(日)のセレブ :
- 場所:ワークピア横浜ユーフォニー
- 時間:14.00-18.00
- プレイヤーMTG:ハロー会議室石川町元町(第二、四水曜日13:00)
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。あるいはメールにもOKです。


いよいよ煮詰まってきました。今回はBBQパーティーと温泉三昧にて。私のセミナーは二回あります。場所が変更になりました。
で、ようやくセミナー用のパワーポイントファイルが完成しました。ふーっ。これが終われば、いよいよ2019年の夏も終わり。一挙に年末に向かいます。

TODAY’S CELEBRATION Aug 11, 2019:エロヒム属のスーパーヒューマン・パワー
MSGタイトル:エロヒム属のスーパーヒューマン・パワー 引用聖 …
- MSGタイトル:エロヒム属のスーパーヒューマン・パワー
- 引用聖句:Acts 17:28;John 10:34-35;Col 2:19;Titus 2:19;1John 5:1;James 2:18;John 3:6;Matt 10:1;28:18-19etc.
- 2019年8月18日(日)のセレブ :
- 場所:ワークピア横浜ユーフォニー
- 時間:14.00-18.00
- プレイヤーMTG:ハロー会議室石川町元町(14日13:00よりバプテスマMTG@ホテルウイング横浜関内、その後プレイヤーMTG)
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。あるいはメールにもOKです。
Amazonにて電子書籍発売
聖書が啓示する人間の構成と霊的および精神的葛藤からの解放のための処方箋を提示する。葛藤の病理を心理学のレベルのみではなく、霊的レベルから解き明かす。本書を読まれた後は、あなたはネヴァー・ビ・ザ・セイム。根底から変革されるでしょう。

すでに再建主義の富井氏の記事を紹介した。その聖句は-
そこで、イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった。-マタイ10:1
これを邦語でサラっと読んでしまうとその重大な意味が喪失される。KJVではこうだ-
And when he had called unto him his twelve disciples, he gave them power against unclean spirits, to cast them out, and to heal all manner of sickness and all manner of disease. -Matt 10:1
この”power”の原語は”ἐξουσία”、その意味はStrongによると-
exousia
From G1832 (in the sense of ability); privilege, that is, (subjectively) force, capacity, competency, freedom, or (objectively) mastery (concretely magistrate, superhuman, potentate, token of control), delegated influence: – authority, jurisdiction, liberty, power, right, strength.
それは特権であり、主観的には力、能力、資格、自由;客観的には支配力(具体的には行政力、超人間性、可能性、支配する徴)である。要するにスーパーヒューマン・パワーである!
けがれた霊に対抗しそれを追い出すパワー、それゆえあらゆる形態の病とあらゆる形態の疾病を癒すパワーである。このパワーは十二弟子にのみ付託されたものではないことはすでに指摘したので、次の聖句を挙げておく-
わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。-マタイ28:18-20
すべての国民を弟子として、十二弟子に命じたいっさいのことを守るように教えよ、とある。ここで十二弟子が得た権威がすべての弟子たる者に継承されるのだ。つまり弟子たちの在り方は、その後に続く信じる者たちの在り方のプロトタイプである。
弟子たちとは機能的な意味であるが、本質的には復活のキリストのZoeを吹き込まれた存在、新創造、ニュー・クリーチャー、スーパー・ヒューマンである。その霊はエロヒムの霊。かくしてエロヒムが増殖する。
すべての身体はこの頭から発して、筋や筋によって支えられ、組み上げられて、神の成長を成長するのである。-Col 2:19(田川訳)
原語では
αυξει την αυξησιν του θεου
直訳すると、「成長する/成長を/神の」である。岩波訳の注においても同様である。 つまりエロヒムが増殖するのだ! それはスーパーヒューマン・パワーを継承する新しい人類、エロヒム属である[1] … Continue reading。

TODAY’S CELEBRATION Apr 07, 2019:タブララサによるYHWHの反映
MSGタイトル:タブララサによるYHWHの反映 引用聖句:Ge …
- MSGタイトル:タブララサによるYHWHの反映
- 引用聖句:Gen 1:26-27;Job 1:1;1:5;3:25;1Cor 6:20;Acts 17:28;Col 2:17;2Cor 3:17-18;Col 3:15 etc.
- 2019年4月14日(日)のセレブ :
- 場所:ワークピア横浜ユーフォニー
- 時間:13.30-17.30
- プレイヤーMTG:
ハロー会議室石川町元町(以降4月はありません。17,24日に非公開の場所でバプテスマMTG) - セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。あるいはメールにもOKです。
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イエスの誕生と死、そして復活が意味するものは何か?最初の人類アダムとエバの“失楽園”、ノアの箱舟、モーセによるエジプト脱出・・・数々の映画のテーマにもなる聖書の奇跡とイエスの生涯に新しい光をあてる。それらは現代人のわれわれとどんな関係があるのか?神は今もなお生きて働かれるのか?それを経験する鍵は?人類のロングセラー「聖書」の世界をよりあざやかにリアルなものとする挑戦的な書。