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トップ > 2008年01月05日

私たちの生きる領域

ファイル 154-1.jpgSPA LIBUR YOKOHAMAにて温泉に浸かり、ジョッギングしてから、さらにMY SPAに浸かり、糖質ゼロでゆっくりしているところです。

さらに、もう一つ道元のことばを紹介しましょう:

魚の水を行くに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども魚鳥、いまだむかしよりみづそらをはなれず。ただ用大のときは使大なり、要小のときは使小なり。かくのごとくして、頭頭に辺際をつくさずといふことなく、処処に蹈翻せずといふことなしといへども、鳥もしそらをいづれば、たちまちに死す、魚もし水をいづればたちまちに死す。以水為命しりぬべし、以空為命しりぬべし。、以鳥為命あり、以魚為命あり、以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし。このほかさらに進歩あるべし、修証あるべし、その寿者命者あることかくのごとし。[以上道元]

[以下Dr.Luke]かくのごとく以命為基督者なるべし、以基督者為命なるべし。

要するに、私たちは無限なる際のないキリストのうちに生きている、と言うこと。キリストから離れて私たちのいのちはあり得ず、私たちがなくしてキリストもいのちたり得ずなのだ。(→Mr.Sugarの記事参照)

あなたがたはキリストのうちにおり、キリストもあなたがたのうちにいます。

如何でしょうか。いわゆる西洋キリスト教の神学などに比べ、禅者のことばの方がはるかに深いのですね。前にも指摘したとおり、<カルヴァンvsアルミニウス>と言った不毛なナンセンスな神学論争を延々と繰り返す西洋キリスト教。その中で己の野心にあって商売に励む牧師たち。「リバイバル音頭」を踊らされている無邪気にも思考停止させられた羊たち。今後ニッポンキリスト教はさらなる愚かさと貧困と悲惨、そして倒錯と狂気の中に落ちることでしょう。

宋から帰国した道元も当時世俗化した比叡山から大いなる圧迫を受けましたが、彼は彼らと争うまでもありませんでした(→道元の原点)。私たちもニッポンキリスト教とガチンコして相手するまでもありません。その中でキリスト教とキリストの相違に気がついた人は幸いです。道元は淡々と自らの師のことば(注)に従って福井の山奥に篭ったのです。イエスも同じでした。

注:如淨禅師「城邑聚落に住さず、国王大臣に近づかず、深山幽谷にあって一箇半箇を接得せよ」。

かくして「一箇半箇を接得せよ」。一人でも半人でもよい、接得せよ。「接得」とは説得ではありません。交わりの中でオツムによらず、体で得ることです。まさにイエスも神学校を開くでもなし、博士号を出すのでもなく、人間としてのを共有する環境にあって弟子たちに触れ合いの中で真理を得させたのです。イエスは接得の達人だったわけです。ヨハネの福音書を読む時、あの晩のイエスの息遣いがそのままに伝わってくるような臨場感を味わうことができるのはそのためです。

ふたりまたは三人がわたしの名の中に集まる時、わたしもまたそこにいるのだ。

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