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本日の一冊

ファイル 230-1.jpgニーチェの『キリスト教は邪教です-現代語訳「アンチクリスト」』(講談社)。ニーチェが発狂直前に著した書。徹底的にキリスト教(イエス自身ではない!)を論駁、と言うよりはこき下ろしている。いわく

・彼ら(=キリスト教徒)は最終的に、現実世界とは別の「愛」という場所に逃げ込みます。
・キリスト教会の考え方は、実はイエスの教えとはまったく関係がないのです。
・キリスト教はイエスの教えからますます離れていき、迷信、おまじない、ヨタ話のかたまりになったのです。
・キリスト教は病気です。・・・まるで精神病院のようなキリスト教の世界について考えるとき、私は用心に用心を重ねています。
・キリスト教会の正体はすでに明らかです。教会は、自然に存在しているさまざまな価値を奪い取るための組織なのです。悪質な偽金つくりの集団です。僧侶の正体も明らかです。彼らはもっとも危ないタイプの人間であり、他人の人生にたかる寄生虫なのです。健康な人たちの精神を食いつぶして生きているパラサイトなのです。
・キリスト教は病気を必要とする宗教です。人間を病気にさせることが、教会の本当の目的です。

あれ、これって私が常日頃指摘している事ですね。要するにキリスト教はイエスご自身とは別物のビョウキを生み出す価値観・教義・実行の体系である・・・と。私は一応クリスチャンであり、死と復活を経たイエスを自分の救い主と信じている者ではあります。が、ニーチェのこれらの観察には何とも「アーメン」なのだ(おいおい、また使う場面を間違っているとニッポンキリスト教徒から指摘されそうだが)。

ニーチェはドイツ・ザクセン州の裕福なルター派の牧師の家庭に誕生した。ボン大学、ライプチヒ大学で学び、実存主義の先駆者、「生の哲学者」として、ニヒリズムを極めた。「神は死んだ」のキャッチフレーズで有名だが、おそらく「キリスト教は死んだ」と解するべきであろう。あの『2001年宇宙の旅』のテーマ曲で有名なシュトラウスも、さらにはヒットラーやワーグナーにも大きな影響を与えた『ツァラツストラはかく語りき』が有名。彼の主張は「くずや役に立たぬ者は淘汰されよ、超人だけが生き延びる」と言うもの(超人思想)。彼から見るとキリスト教会はクズや病人の世界であって、それは粛清されるべき世界なのだ。しかし1888年、膨大な原稿を書いたあげく、精神錯乱を起こし、その後10年ほど生きて1900年に没。牧師の家庭に生まれた悲劇と言える。

彼のキリスト教批判には、イエスご自身に対する遠慮がちらちらと感じられる。いわく

イエスはやはり自由な精神を持った人だったのです。イエスは、生命や真理、光といった精神的なものを、彼の言葉だけを使って語りました。イエスと言う人は、歴史学や心理学などの学問とも、芸術や政治とも、経験や判断、書物といったものとも、そしてすべての宗教とも、なんのかかわりあいもないのです。

しかし彼はキリストご自身とキリスト教の切り分けが不十分だった。イエス・キリストがどなたであるのか、そのアイデンティティに対する決定的信仰にあと一歩のところに迫っていたのに、それが得られなかった。もし得ていたら、発狂の運命からは逃れられたであろう。その以前にキリスト教会の欺瞞性と愚かさを知ってしまった。さらに面白いことは、仏教をきわめて高く評価している点。私も虚しい西洋神学の議論を読むよりは、道元や親鸞の書物の方がはるかに滋養があると感じている。それはニーチェも言うとおり、生きることをそのものを志向するからだ。

ニーチェの悲劇はまさに現代ニッポンキリスト教においても、下の投稿にあるようなきわめて矮小化された形で再現されているのだ。私は常々思っているのだが、いまいち私のIQが高かったら、私もニーチェと同じ運命を歩んだであろう、と。実際、中高校時代の私はかなりヤバかった。「生」のナンセンスさにあえいでいた。これは当時の同級生が知っている。しかし、幸いにも、かろうじてギリギリのところで主イエスを信じることが出来るほどに、ニーチェの言う愚かな人間だったのだ。精神錯乱の一歩手前を味わった者として、人間ニーチェには限りない同情を覚え、彼をそこに追い込んだキリスト教なる壮大なフェイクに憤りを覚えるのだ。明らかにキリスト教は感性が敏感な人であればあるほど狂わせるのである。しかしキリストは私たちを限りない健やかさへともたらして下さるのだ。

キリスト教とキリスト―この切り分けが出来た人は幸いである。

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