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トップ > 2009年03月08日

芽吹き-ミニストリーと個別教会(集会)-

先に少し書いたが、ミニストリーと個別教会の関係について一言。今のKFCの集会はたまたま私のミニストリーを契機として生み出されました。そして私のミニストリーを受け入れてくださる中で、ここまで歩みを共にすることができたわけです。これはパウロの場合も同じです。彼のミニストリーによって地中海地域に多くの目に見えるエクレシアが誕生しました。が、彼は一箇所にとどまることはなかったのです。ましてやそこの献金の上がりで食べることもあえてせず、大きな会堂を建てることもなく、むしろ天幕作りにいそしみました。個々の集会(交わり)に一切の負担をかけることを良しとしなかったのです。この彼の動きを見れば、ミニストリーと各地域教会の関係が分かります。

各地の教会は別にパウロの自己実現のためでもなく、彼の生活の資を備えるためのものでもありません。千人教会を作って満足することの幼稚さがよく理解できるでしょう。そもそもその地の兄弟姉妹は彼ら自身で管理・運営するべきなのです。つまりミニストリーは個人に与えられた賜物であり、アノインティング(油塗り)であり、それはその人に固有のものです。パウロはパウロ、ヨハネはヨハネ。それぞれ個性があるままに、そこからキリストが証しされます。また守備範囲もまったく異なるのです。

しかし各地の教会はそこの兄弟姉妹そのものです。彼らはひとつのミニストリーや特定の個人によって生きるのではなく、主との直結によって歩むべきなのです。また主ご自身の御名の中へと集まるのです。特定の個人やミニストリーの名の中ではありません。ミニストリーはキリストの体全体の益のため、請われれば、また受け入れらる処どこでも提供することができます。

いわゆる今日のニッポンキリスト教界の諸問題はここに原因があります。特定のミニストリーと各地の教会が一体とされているのです。ここでいわゆる「○○に在る教会(召会)」と称する、現代の唯一正統な神の回復の教会、ウィットネス・リーのローカルチャーチも同じ過ちを犯しています。今日の神のビジョンを見て神が立てた者はウォッチマン・ニーの自称継承者であるウィットネス・リーおひとり。その他はすべて分裂の教会。彼のミニストリーが今日の唯一の神の回復のミニストリーであり、ひとりの使徒、ひとつの教え、ひとつの実行、ひとつの教会(一行政区にあって)、ひとつの出版、ひとつの発言・・・に従えとなるわけです。かくして彼らのサイトをご覧いただければ分かりますが、各地の個性と言うものがほとんどありません。画一化された内容で、言っていることもみな同じ。要するにある人のコピーなのです。

しかし聖書を読まれる時、パウロはパウロ、ヨハネはヨハネの個性に触れることができるでしょう。しかし同じ香を放つわけです。神は多様性の神であり、これは自然界を見れば分かるでしょう。その多様性の中にあって、ご自身の神性を証しされ、キリストがその個性の中から浮き上がるのです。

かくして特定のミニストリー依存の歩みは御言葉の啓示するところではありません。私はこの意味で、私のミニストリーと今の兄弟姉妹の交わりを分離すべき時期がそろそろかなと、この数年感じてきているわけです。私のミニストリーは私に対する固有のアノインティングがある限りは続くでしょう。ネットでメッセージも提供することもできます。しかしそれはある特定の場所でだけ、ではないのです。兄弟姉妹もそろそろご自分たちで立って、歩めるフェーズに入っていると感じています。まあ、確かに数は多くはないでしょう。

ファイル 753-1.jpgそして本日のメッセージでも語りましたが、これからニッポンキリスト教界は荒廃に落ちるでしょう。イエスの名以外に高くされる名はことごとく打ち倒されるでしょう。それは戦後の東京の焼け野原のイメージです。しかしそこにはよく見ると、小さな青い目があちこちに芽吹いていることでしょう。これが神の御業です。復活のいのち、青く芽吹いた双葉たち。弱々しく、派手ではなく、しかしキラキラと輝いているのです。私が今見ているビジョンはこれです。それはいわゆる教派とか神学とか、そのような形骸化した教えや教義の制限とは関わりなく、自由にまさにあちらこちらに、今はまだ点々とですが、芽吹くのです。否、すでにその兆しを見ることができますし、確かな手応えを感じています。

それは一切人の手によらず、ただ神のいつくしみとあわれみの中で、恵みによって水を注がれ、養分を与えられ、着実に育つことでしょう。具体的には「二人または三人がわたしの名の中へと集まる時、わたしもまたその中にいる」と言う主のお約束の実体化です。これは「ニ、三人集会運動」ではありません。集まるのは何人であっても構いません。少ない時はその味わいが、多いときもその味わいがあるのです。大切なのはわたしの名の中へ集まることです。そしてこれが実際的に実行できる人々が育てば、すでに特定のミニストリーは彼らにとっては不要です。なぜなら育てて下さるのは神ご自身だからです。

今後、このようなビジョンによって神はいのちを荒廃の中で増殖されることでしょう。煌びやかではありません。力もありません。しかしこの小さな芽はアスファルトすら打ち破って芽を出すのです。この時がすでに来ています。そしてあらゆるいのちの誕生と成長のための資源は十字架にあります。それを見い出した者は幸いです。ハレルヤ!

神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。

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