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トップ > 2009年03月14日

世界情勢を透視する視点-心-

このBlogでも、私は前から、経済学は数学の装いをつけているが、それは眉唾で、実は心理学だ、と言っている。実際デリバティブの基になるブラック・ホールズ方程式とても、はっきり言って、私たちから見ると「なぜ?」と思うことは前に指摘した。最近ではノーベル経済学賞も廃止すべしとの説もある。

ファイル 765-1.jpg"SAPIO"の3/25号に大前賢一氏がそのことについて注目すべき記事を書いている。いわく「誰も金融パニック渦中の"心理経済学"を分かっていない」。要するに現在の混乱は信用不安、つまり人々の心理が冷え込んでいることによる。私の昨年のバビロン・シリーズのメッセージでも、経済は信仰だと言ってきたが、このところを外していわゆる経済対策を取っても何も効がないと指摘。大前氏の提唱する「有時の経済理論」の三法則とは

 ・第一法則:人の心が凍っているパニック時に金をばら撒いても経済波及効果はない→防衛のため消費に回らない。
 ・第二法則:金融機関から市場性や社会性が失われること→防衛のため自分の生き残りだけを考える。
 ・第三法則:金利を下げても借り入れが増えない→金利の影響を受ける流動性を持つ層は自己資金内でやりくりするだけだから。

かくして、ここでも何度も指摘しているが、人々の心を暖めることが肝要なのだが、大前氏の提唱する方法は

 ・個人も財務諸表を作成し、住宅などの原価償却を認めること→経費で落とせるため節税になり、住宅投資も促進する。
 ・企業の原価償却の期間を短くする→投資を活発化する。
 ・雇用政策はエブリワン・ハッピーはあり得ない→ニートやフリーター層対策のために金を使っても無意味。有意の層を厚遇すべきだ。

そして浜田和幸氏は「アメリカで囁かれ始めた"ドル廃止""金本位制復活"そして"新通貨AMERO導入"の驚天動地」と題する記事を書いている。ドルの信認は地に落ちているわけで、これを打開するためにはたとえ1/10でもゴールドとリンクさせる必要があり、さらにはカナダ・メキシコを巻き込んで新通貨を作る過程で6,400兆円の財政赤字をチャラにする試みの可能性も指摘する。私は友人の先生たちと半分冗談で「今の時代、最善の経済対策は徳政令だな(笑)」と話し合ってきたが、どうもこれもあながちホラでもなくなりそうだ。そしてアメリカは中国を国債などの引き受け先として、日本ろロシアを見捨てるとも予測する。これも私はここで何度も指摘してきた。

個人にしろ、国家にしろ、自己増殖&自己保存欲求に従って行動するわけで、今の状況では自己防衛に終始するわけ。そのことを念頭におけば世界がどう動くかは予想できる。それは経済理論に従って動くのでなく、この自己保存欲求というきわめて原始的なプロトコルなのだ。社会や教界に関する私の診立てのかなりの部分が当たる理由は、私が占い者でも、いわゆる予言者であるからでもない。私は心理を読み取ることができるからだ。前から言っているとおり、私は陰謀論史観でもなく、予定論史観や偶然論史観でもなく、精神病理史観を採る者なのだ。もちろんそこに諸霊とニンゲンの魂との相互作用が働いているし、先に述べように、神は主権を行使し、摂理によってすべてをご自身のご計画の成就のために用いられる。

今後大衆が切に求める、また自身をすらそれに委ねるであろうもの-それは自己保存欲求を満たしてくれる存在。それは本来神だったのであるが、人類は「何か」に置き換えたいのだ。ここにバビロン由来の宗教・経済複合体が侵入する隙があるのだ。「何か」がすなわちアイドル(偶像)となる。ゆめゆめあなどってはなりませぬぞ、アイドルとはかくも深く人間の実存性と関わるものなのだから。

CDのご紹介

ファイル 764-1.jpg英国KFMのサイトがリニューアルされ、ようやくオンライン注文ができるようになりました。新しいCDをご紹介します:

A Door Standing Open(←クリックすると試聴できます)

今回は私の方では扱いませんので、各自ご注文くださいませ。

Dr.Lukeの一言映画評

ファイル 763-1.jpg現役の臨床医でもある海堂尊氏原作の『ジェネラル・ルージュの凱旋』。先の『チームバチスタの栄光』に続く作品。

・・・ではあるが、前回の巧みな医学知識に基づいたミステリーを解いていく構成に対して、今回のはそれが欠如。現役の医師なのだから、専門知識に基づいたミステリーを期待していたが、今回はいまいち。単なる推理小説的ヒューマンドラマ。これなら別に医師でなくても書けるだろう。

竹内結子演じるちょっと抜けた心療内科医田口と、阿部寛演じる東大卒のエリート意識丸出しの厚生労働省役人白鳥の掛け合いは面白いが、先の切れ味鋭い白鳥の推理が今回はほとんど生かされていない。これでは夫婦漫才だ。ただ、殺人事件の真犯人は意外にも成るほどと思える人物なわけで、まあ、リアルでもこれはあり得るかな(それに類するストーカー事案は現にあった)。

救急医ジェネラル・ルージュ役の堺雅人がそれなりの雰囲気を醸していた。彼はこれから期待できる役者ではあるが、トリアージのジレンマと残酷さによる葛藤を描く場面はやや薄い。ちょっと期待があった分、残念ではある。

真の礼拝の場は

前に英国KFMPennyさんが来日された記事でも紹介したが、KFM出身のRichard JeorgeのノーウィッチのCornerstone Churchでは、いわゆる「主日礼拝」なるものを行っていない。ニッポンキリスト教には午前10時の礼拝が正式な礼拝であって、毎週欠かさず参加することがクリスチャンの義務であり、ある牧師などは50年間ただの一度も欠かしたことがないと誇る向きもあるようですが、あほらしい。ノーウィッチでは「箱のない教会」の実行で、いつでもどこでも兄弟姉妹のいるところに主の体の出現があることを証している。宗教ではなく、生きているキリストとの関わりこそがすべて。彼らのスローガンを紹介しておきます:

Building on what God has done in and through earlier generatons, we see the new thing He is doing today:church without walls;church without pews;church without a building;church out there.

今日、私たちが主を礼拝する場はどこでしょう。それはまことの至聖所である霊においてです。

婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。

そして教会(エクレシア)とは何でしょう。パウロは明確に定義しています:

コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべてのと共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。

「教会とは召された人々」と明確に書いている。どこに教団組織があり、どこに教派があり、どこに立派な会堂があるでしょう。人々なのです。いたるところで、主の御名を呼び求める人々が教会なのです。「いたるところで」。カラオケボックスだろうと、大学の学食だろうと、ジャズのライブハウスだろう、温泉だろうと、いたるところ、でです。そこに神学の学びをした職業牧師が必要でしょうか。アブソリュートゥリー・ノー!そのような連中の懐に自ら入る愚かさは避けなさい。主の御名を呼び求めることが条件です。

昨今のニッポンキリスト教なるギョウカイは、告発と非難の応酬で荒れに荒れていますが、告発する側もされる側も同じ土俵にいるから反応し合うわけです。しかしこれはまだ序の口です。いくら正論を振り回したところで、そこには決して真の自由はありません。盲人には盲人の手引きはできないのです。二人とも穴に落ちるでしょう。私はそのようなニッポンキリスト教と言う忌まわしい"箱"からのエクソダスを勧めてきましたが、これからますますその立ち位置による選別がなされるでしょう。

実は面白いもので人はあえて束縛されることを選ぶのです。束縛されていた方が楽だからです。「被害者」と称する人々は自ら束縛をされ、その中で自分のアイデンティティと安心を得ようとしているのです。フロムの「自由からの逃走」はここにも見られます。自らを省みることなく、牧師を告発しても、真の解放はありません。この意味で昨今の惨状は、どちらも同じ病理的要素を持っている人々が互いに鏡に映った自分を非難し合っているわけです。

もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。

賢明な人は決してそのような修羅場には近寄らないこと、そして宗教の外でキリストにある自由を楽しみましょう。ヘブル書にあるとおり、主ご自身が宿営の外で焼かれたのですから

私たちは、キリストのはずかしめを身に負って宿営の外に出てみもとに行こうではありませんか。

ノーウィッチの教会によるこちらのFlashをぜひご覧ください:

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