Utility

Calendar

< 2009.3 >
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
- - - - - - -

WORLD CLOCK

COUNTER

    Access.....
    Yesterday......
    Today.............

KF_SITE

FOR MEMBERS

KF_PODCAST

YOUTUBE ARCHIVE

OUR WORSHIP

TWITTER UPDATE

INSTAGRAM UPDATE

PRAY FOR ISRAEL

KINGDOM FAITH(UK)

NEW LIFE CHURCH(UK)

QRcode

BIBLE SEARCH

Entry Search

Recent Entry

Recent Comment

未承認
2017/08/07 18:42 未承認
Re:聖書をキリスト教から解放せよ!
2015/04/22 09:49 菊千代
Re:「当たり前」が崩れる時代
2015/04/20 07:42 Luke
Re:出版への状況
2015/04/20 07:41 Luke
Re:出版への状況
2015/04/19 21:55 toshi

Recent Trackback

PJ 高橋清隆氏の記事が出ていました。
2008/06/25 20:45 AAA植草一秀氏を応援するブログAAA
負のレガシー
2008/06/18 16:03 リチャードの日記
キリスト者とインターネット
2008/06/18 09:21 キリスト教 プロテスタント 聖書 信仰
キリスト者とインターネット
2008/06/18 09:12 キリスト教 プロテスタント 聖書 信仰
産声を上げたKFC、、、、、
2008/05/05 12:10 thelongstreamingully

タグ一覧

Link

Entry

トップ > 2009年03月19日

生命現象としての教会-自律性-

ファイル 770-2.jpg大脳の機能の特徴として分散型かつ並列型情報処理がある。脳のいくつかのモジュールが並列的に機能することにより、PCのCPUなどよりはるかに反応が遅い素子ニューロンのネットワークでも、ほとんど瞬時の情報処理が可能となる。ベースボールで0.5秒程度で到着する球を打てるのは、まさにこの情報処理システムのお陰である。

キリストの体も実は分散型にして並列型の有機体と言える。それはいわゆる一人の強力なリーダーの下にヒエラルキーによる枝分かれ的な階層ではない。リーダーはキリストお一人であり、その方に私たちは直結し、その導きによって、ある者は使徒、ある者は預言者、ある者は伝道者、ある者は牧者・教える者の機能的役割を受ける(いわゆる「五役」ではなく、「四役」である)。しかしこれはランク付けではない。事実、「牧者・教える者」は最後にリストされている。

これは流動的に、時々に、御霊の配剤により分担が行われる(機能的アイデンティティの面)。そして各肢体はそれぞれが分散的かつ並列的に機能する。が、それぞれが一人の頭につながり、その指令に従っているとしたら、そこには一人のお方の意志が表現される。この意味で現在のいわゆるキリスト教における<牧師(教職)→信徒>のヴァーティカルな一方的流れは聖書の啓示するところではない。事実、聖書には「相互の交わり」とある。皆、神の子であり、祭司であり、それは並列的なのだ(本質的アイデンティティの面)。

参考:教会の職制について(→http://www.kingdomfellowship.com/Topics/four_roles.html

このような分散型・並列型システムでは、ある箇所が損傷を受けたとしても、システム全体が損傷を受けることはない。その損傷はあくまでもローカルであり、その損傷は他のモジュールが十分に補うことが可能だからだ。教会の場合、ある肢体が倒れたとしても、御体全体に影響が及ぶことはない。また迫害を受け、ある有力な肢体が取り去られたとしても、それはきわめて局所的な影響にとどまるであろう。それぞれが主と直結し自律しているからだ。現在のキリスト教のあり方は、あたかも「親亀こけたら皆こけた」式であり、これは人の作り上げたヒエラレルキー的組織に堕しているからである。

生命の特徴は、自己増殖、自己再生産にあるが、その本質は自律性である。私たちの身体も、特に付随意(自律)神経系の機能はいのちのままに自律的に各パーツが機能するが、すべては身体の制御機構である大脳のプログラムによっている。隋意神経系は私の意志によって制御することが可能である(実はこの自由意志の及ぶ領域はそれほど広くはない)。これが私たちの身体の統一性と調和性を生み出す。

ファイル 770-1.jpgパウロは「教会(召し出された者たち)はキリストの体だ」と言っているが、これは喩えではない。事実、実際に私たちはキリストの体の肢体である。神経系と血管系が天の御座から流れ込んで来ており、それぞれキリストの指令(意志)とキリストのいのち(エネルギー)を伝達する。それらは御霊が媒介する。個人レベルせよ、集合体レベルにせよ、この連絡が切れていると様々の問題が生じる。

今、主は、ニッポンキリスト教において、このような自律性を阻み、兄弟姉妹たちを囲い込む人々を排除しているのだ。兄弟姉妹たち自身も誰かの下に自ら囲い込まれてはならないし、むしろ分散していくべきなのだ。前々から言っているとおり、このギョウカイにおいて、多くの人々が混乱し、散らされ、路頭に迷うであろう、が、実は神はその時を待っておられる。一人ひとりがまことの頭に直結できるかどうか、これが復活のいのちの双葉の現れの後、成長しつつ具体的に地上においてキリストの体が建て上げられる際の鍵となる。それはまことに生命現象の神秘と不思議である。

さて、果たしてそれはいつの時になるだろうか・・・・。

補遺:ここでの「自律性」と言う概念は、昨今、さらに生物学者によって「オートポイエーシス」と言う概念にまとめられている。"auto(αυτό)" は自己、"poiēsis(ποίησις) は生産・創作の意味で、日本語ではしばしば「自己創出・産出」と言われる。

Access: /Yesterday: /Today: