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トップ > 2013年04月02日

型から入り型を超える

はじめに言があった・・・ヨハネ福音書の冒頭の聖句。この言はロゴス。何かを説明し、表現するための媒体としてのことば。イエスは神の受肉、見えない神が肉体を取られて、神を表現されたお方。つまり神の言そのものだ。何故にあえてあの地においてひとりの人などになって、十字架にかかり、殺されたのか。そして復活し昇天したのか・・・。そこに神の御心がすべて表現されている。実にイエスは神を必要にして十分に説明されたのだ。ゆえに彼を見た者は神を見たのだった。イエスと言う形、あるいはパターン、あるいはテンプレートの中にあえて拘束され、制限された神。こうして無限なる神が有限なる人類と関わることができるようになったのだ。

ファイル 3509-1.jpg

さて、今回の戸隠におけるおじさん三人の間で、電気屋さんの手作りワインを傾けつつ、けっこうおもしろい会話が交わされた(写真、お借りしました、よろしく)*1。Salt氏は作詞作曲、絵画、オブジェ制作、シナリオ作成、プロデューサーと、何でもこなす才能をお持ちの方。電気屋さんも家から、家具や椅子から、パン、ジャム、ヨーグルトなどすべて手作り。その薀蓄とこだわりはかなりのものだ。で、私はと言うと、興味の範囲は広いが、そういった創作とはこれまで無縁の世界にいた。

この数年来、Salt氏に啓発されて、私も遅ればせながら音楽理論や漢詩の世界にほんのちょっと足を踏み込んでいるのだ。音楽を学んで分かることは、音楽は数学だということ。きわめて理論的に構成されている。1オクターブ(周波数の2倍)を等比数列で12段階に割った音階がいわゆる平均律。つまり半音とは2の12乗根の比だ。その順列組合せを時系列に並べると曲になるわけだ。したがってそのパターンの数は無限にあり得る。

しかし、その中で私たちにとって何か美しいと感じさせたり、感動を生んだり、喜びや悲しみを生じさせるパターンは限られる。私などは楽器は演奏できないし、音楽理論もほんの初歩。しかし"感じる"ことはできる。何がそれを美しいと感じさせるのだろうか。Salt氏によると、神が大脳に埋め込まれた人類に共通の感受性の共鳴箱みたいものがあると言われる。それに触れる旋律は人種や言語の壁を越えて美しいと感じさせるのだ。つまり音楽的美の共鳴器はすでに万人の大脳のうちにインプラントされている。作曲家はそれを発見するだけなのだ。

さらにコード進行などもJazzならJazz、ボサノバならボサノバのそれがあり、それぞれの風味を醸し出す。ある時点で、そのパターンというか、テンプレートを発見したアーティストがいたわけだ。つまりそれらもすでに大脳に埋め込まれていたのだ。ちなみに数学においても、フィールズ賞を取った小平氏は、数学の定理の発見はあたかも仏師が木の中から仏を発見して掘り出すようなものである、と言っている。つまり数学の定理も仏像も、すでに大脳の中に埋め込まれているのだ。よって私たち凡人でもその発見の過程を追体験できる。

同様に俳句はもちろん、漢詩などもある一定のパターンがあり、それが美を生じさせる。そのパターンは多くの名作を解析して統計的に整理されて現在に至るのだ。そこで私のような者でも、そのパターンあるいはテンプレートに漢字を嵌めると一応の漢詩が出来上がる。・・・と言うわけで、今、作曲ソフトでコード進行の理論を、漢詩作成ソフトで漢詩の構造を学んでいるところなのだ。

さらにSalt氏によると、松田聖子はすごいのだとか。彼女と松本なんとか氏のコンビで名曲が数多く生まれているのだそうだ。例えば、「ハイヒールを傾けると私たちの夏がこぼれていく」などの台詞。これで二人の間にどのようなひと夏の経験が繰り広げられたか、ぱーっとイメージが展開する。"Ti Amo"などでも「日曜日の夜はベッドがひろい」とか、「キスをするたびに目を閉じてるのは明日を見たくないから」とか、「部屋を出る時はさよらなじゃくて、おやすみと言ってほしい」といった詩からふたりの関係が実にビビッドに見えてくる。ことばが映像を生む。逆にビットゲンシュタインなどは、「ことばは事実の映像である」と言っている。どちらも大脳に組み込まれたメカニズムによって構成されるのだ。

絵画でも、先に書いたようにいわゆる黄金比φが美を決定する。いわゆる美しい絵画や彫刻には何気にこのφが組み込まれているのだ。では、なぜφは私たちに美しいと感じさせるのだろうか。分からない。神が大脳にそう組み込まれたとしか言いようがないのだ。昨今、型にはまった教育はダメとかもっとらしくのたまう人々がいるが、彼らは型の真の意味を理解していない。空手や茶道などもそうだが、型から入り、型を超える。つまり型にはまっているようだが、そこに無限の世界が展開しているのだ。型がなければ単なる混沌に過ぎない。型はもっとも自然かつ安楽で美しい動きを生むのだ。型にはまるようで、実はそれがもっとも自由なのだ。ピカソのような抽象画家も、実はもっとも写実画を書き込んだ究極に達する境地のようだ。型から入って、型を超える。日本の「道」などはこの世界の具現化なのだ。いのちの御霊の法則に乗ることも同じだ。それはもっとも自然で安楽で美しい。

・・・といった話がかの戸隠の地で展開されたのだった。私も理屈のみではなく、実践に入っていきたいと願っているところではある。

■参考:

*1電気屋さんも同じテーマのエントリーがあります。Blogタイトルを変えられたようだ。

河口湖にて富士を望みて

漢詩(七言絶句平起式)を詠んで作ってみた*1。「一石」とは私の号、つまり"Einstein"だ*2

ファイル 3508-1.jpg

■読み:

眠れる山に望んで

湖波(こは) 春水(しゅんすい) 晴天を映す
山は秀で 江亭(こうてい) 遠色鮮やかなり
水面 波を帯び 愁裏(しゅうり)の色
来たる時 野色(やしょく) 自ずから煙を生ず

■意釈:

眠れる富士を眺めつつ

湖面の波は春の水にして 晴天を映している
山(富士山)は秀でて 茶屋の見える一面の景色は鮮やかだ
水面は波立ち 愁いを帯びた色をしている
時が来るならば この素晴らしい景色も 噴煙で覆われてしまうのだ


(C)唐沢治

*1:「詠む」と言うより、パズルのように「作る」と言った方が適切。要するに平起式のテンプレートに単語や漢字をはめ込んだのだ。
*2:ペテロの意味もあるか・・・

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