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トップ > 2015年03月07日

マインドと物質界

今晩、オウム事件の特番があった。当時、バブルのカネまみれに疑問を抱いた若者がオウムに惹かれた理由の一つに、霊的な要素あるいは超能力的な要素をオウムが持っていたことを指摘していた。彼らは目に見える事象に倦んでいたのだ。ところがいわゆるキリスト教は彼らに処方箋を提示し得なかった。これは今も同じ。「清く・貧しく・美しく」的で、無力にも神のデュナミスを証していない。聖書を道徳や倫理、あるいは教育や社会規範の書物としてしまっている。キリスト教が神の言葉のデゥナミスを束縛しているのだ。もっと言えば、キリスト教は人々のマインドを解き放つどころか、逆に拘束する。

さて、量子力学の世界では人間の意識が量子の状態に影響すると言われている。そもそも観測することは光を当てることによるが、光量子を電子に当てれば、電子は状態を変えてしまう。つまり位置と運動量を共に確定することはできないのだ。これをさらに進めて、意識作用自体が量子の状態に影響を及ぼすとする説が存在する。例えばこちらを

これを聖書信仰的立場から解すれば、ヘブル11章3節にあるとおり、目に見えるものは目に見えないものがフレーム化したものであるのだから、私たちのマインドが信仰によって目に見えない領域に影響を与える場合に、十分にありえることと思われるのだ。

信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られた(framed)ことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。-Heb 11:3

ポイントは、理性によって悟るのでははない。信仰によって悟るのだ。実はこの「信仰」という訳語も曲者である。信じて仰ぐ?はっきり言って意味不明だ。原語は"pistis"。この作用は1節に定義されている。

pistisは希求する事柄の実体(hupostasis)、目に見えないものの証明(elegchos)である。-Heb 11:1(岩波訳)

この目に見えない世界の実体を把握することは霊による。決してマインドにはよらない。が、マインドが制限されているとその実体を掴み損ねるのだ。例えば、病気は人格を練るために神が与えるものだとマインドがコンフォームされている人は、決して癒しの実体を得ることはできない。魂(soul)のマインドが霊の機能を抑圧してしまう。しばしば問題を抱え続ける人は、魂、特にマインドが束縛されている。だからそもそも神に求めることができない。キリストが十字架において成し遂げられた実体を得ることができない。かくしてこの時空間の中において延々と悶え続ける事になる。

Bill Johnsonをはじめとして、いろいろな人々がなかったものが存在するに至る現象を証している。切除された乳房が再生されたり、切断した指が生えてきたりと・・・。これらの現象はこれまでの私たちの世の形にコンフォームされたマインドの理解をはるかに超える。ゆえに大いなる議論や論争を生むのだ。それはイエスの御業を見た人々の間ですでになされたことであった。イエスは言われた、「信じる者には何でも可能である」と!信じるとはマインドが念仏を唱えるように、「われは○○を信ず!」と繰り返すことではない。望んでいる見えない実体を得ることだ。その信仰の瞬間、「得た!」と分かるのだ。それはマインドの理屈を超えている。"I know that I know that I know!"。

神の形に造られた人間のポテンシャルは相当のものがあるのだ。それは世の形にコンフォームされたマインドが、啓示された御言葉の形にトランスフォームされる時に発揮される。すなわちそれはキリストのマインドなのだ。私たちはすでにキリストのマインドを持っている!(1Cor 2:16;邦訳ではキリストの心とあるが、これは誤訳。)あらゆる状況や事象をキリストのマインドで見るとき、絶望とか失望とかはあり得ないのだ。

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