Utility

Calendar

< 2015.3 >
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
- - - - - - -

WORLD CLOCK

COUNTER

    Access.....
    Yesterday......
    Today.............

KF_SITE

FOR MEMBERS

KF_PODCAST

YOUTUBE ARCHIVE

OUR WORSHIP

TWITTER UPDATE

INSTAGRAM UPDATE

PRAY FOR ISRAEL

KINGDOM FAITH(UK)

NEW LIFE CHURCH(UK)

QRcode

BIBLE SEARCH

Entry Search

Recent Entry

Recent Comment

未承認
2017/08/07 18:42 未承認
Re:聖書をキリスト教から解放せよ!
2015/04/22 09:49 菊千代
Re:「当たり前」が崩れる時代
2015/04/20 07:42 Luke
Re:出版への状況
2015/04/20 07:41 Luke
Re:出版への状況
2015/04/19 21:55 toshi

Recent Trackback

PJ 高橋清隆氏の記事が出ていました。
2008/06/25 20:45 AAA植草一秀氏を応援するブログAAA
負のレガシー
2008/06/18 16:03 リチャードの日記
キリスト者とインターネット
2008/06/18 09:21 キリスト教 プロテスタント 聖書 信仰
キリスト者とインターネット
2008/06/18 09:12 キリスト教 プロテスタント 聖書 信仰
産声を上げたKFC、、、、、
2008/05/05 12:10 thelongstreamingully

タグ一覧

Link

Entry

トップ > 2015年03月17日

預言者の霊

預言者の霊は預言者に服従するものである。-1Cor 14:32

この御言葉はすごい。預言者の霊(複数形)とは何か?もちろん聖霊の(現れ)こと。Vincentはこう解説する:

The movements and manifestations of the divine Spirit in the human spirit, as in 1Co 12:10.

私たちが癒しの言葉や知識や知恵の言葉を語り出すとき、聖霊は私たちの意志に服されるのだ。もちろん、いわずもがな、聖書の御言葉の原則に反しない限りであるが・・・。ゆえに私たちはサブスタンスに触れたら、すなわち信を得たら、語り出すこと。あるいはその自覚がなくとも、御言葉をdecree(法的効力の宣言)すること。これで一つの霊的任務が完結するのだ。ただ恵みを受けて気持ちよくなりたいだけの人もいると思うが、私たちは祭司であり預言者。そして王として権威を行使する必要があるのだ。まことに

「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。-2Cor 4:13

神は「XXよ、あれ」と言われた、するとそれはあるようになった。この原則は私たちも適用されるのだ。しばしば魂(特に思い=マインド)ががんじがらめになっている人は言葉を発せない。敵に縛られたまま、その中で生きることに慣れてしまっている。彼らにとっては奴隷解放宣言が発効しているのに、あえて奴隷状態でいる方が楽なのだ。人はしばしば貧困・病気・困難・弱さ・自己憐憫など、ネガティブな状況にあえて留まるものだ*1。彼らにとってはそこがコンフォート・ゾーンになっている。だから主イエスは盲人に対して、「あなたはわたしに何がしてほしいのか」とか、「治りたいか」と質問された。その「治りたい」という意思表示が癒しあるいは解放への第一歩なのだ。

クリスチャンよ、語れ!

*1:この時に正当化のためによく使われるのが、イエスは病人を招くために来たとか、健康な者に医者は要らないとか、彼は弱者に寄り添ったとか・・・。これらは自己憐憫の投影に過ぎない。イエスは決して同情はしなかった。あわれんで、その状態から解放されたのである。

サブスタンスをつかむ

よく自分の信仰を云々する向きがある。自分には信仰があるとかないとか。あるいは自分が信仰によって何かを頂ける人間ではないとか、小さなものに過ぎないとか。あの人の信仰は偉大とか、純粋とか・・・。メッセも語ったがみな自意識過剰だ。

実は信仰はそのようなこととは一切関係がない*1。信仰、もっと正確には信(pistis)とは実体(hupostasis)、サブスタンスだからだ。それは私とは関係なく存在する。そのサブスタンスそのものが信なのだ(Heb 11:1)。世界はそのサブスタンスがframe化されたもの(Heb 11:3)。肉の目には目の前の事実がサブスタンスよりも現実感を伴う。それがリアリティだと思っている。しかし主の目にはサブスタンスの方が現実よりもリアルだったのだ。だから五つのパンで五千人を養うこともいとも容易いことだった。私たちも霊の目が開けると目の前の事象よりもサブスタンスの方がよりリアルになる。天のポータルとして霊的領域のサブスタンスにアクセスし得る能力を得ている。キャッシュ・ディスペンサーのように、そこからいくらでも天の富を引き出せるのだ。

サブスタンスに触れたとき、私たちは願っていたものを「得た」と分かる。たとえ、目の前にはまだ存在していなくても。くどくど長たらしく祈る必要もない。ふっと霊を開けば良いのだ。神の国は、今、ここに、あるのだから。キリスト教のあれこれのややこしい教えの体系を捨て去れば、見える。私たちは内側に神の国を得ている新創造だ。天の父はわたしの持っているものはすべてあなたのものだと言われる。御子イエスは私たちが彼とおなじ業、さらにもっと大いなる業をなすと約束された。聖霊はそのことを地上に現出させ、実際に行われる。Pete Cabreraはこの内なる存在はhuge、humongousだと言っている。

まことに私たちは神の国のパワーポイントなのだ!

*1:よく自分の"信仰"に信仰を置くミスを犯す傾向がある。私たちの信はサブスタンス。自分の"信仰"を見ていると罠に落ちるのだ。「それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にあって立つのではなく、神の力にあって立つためでした」-1Cor 2:5。

Access: /Yesterday: /Today: