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トップ > 2015年03月28日

言葉の罠

ニール・アンダーソンの黙想にもあるが、昨今ニューエイジが隆盛をきわめている。私の書いた記事も紹介しているが、その中に、私が最近用いている単語と同じ単語をニューエイジでも用いている。たとえばチャネルとかポータルとか。で、この単語を見るだけで、Dr.Lukeはニューエイジに走ったとか思われる向きもあると思う。

これは邦語訳聖書の問題点でも何度も指摘しているが、たとえば、霊と魂を、思いと心を混同している場合がきわめて多い。日本語で聖書を読んで真理を理解することは困難なのだ。なぜか、これもすでに指摘したが、pistisを「信仰」と訳した時点でアウト。日本語の世界観が入り込むからだ。pistisは「信じて仰ぐ」のではない!聖書は聖書で定義すること。pistisとはサブスタンスとその立証なのだ(Heb 11:1)。

何を言いたいか。私は、要するに「チャネル」とか「ポータル」と言っても、それは普通名詞として用いているだけ。日本語で言えば、単なる「門」、「出入り口」。そもそも聖書で「天の門」、「ハデスの門」と用いているのだ。もっと言えば、サタンは神の物真似をするだけ。ニューエイジが聖書をパクったのだ。表向きの単語に引きずられないように。そもそも霊(spirit)にしてもニューエイジでもオカルトでも用いている。しかし私たちの使う霊は聖書によって定義されている。物事の表層で判断しないようにお願いする次第。

一言付け加えると、ニューエイジの本質的問題点はイエスの十字架と血潮によらず、人間が神的能力を開発する点。あるいはgodsになろうとする試み。私たちはイエスの十字架と血により、ニュー・クリエーションとされている。この真のアイデンティティーはpistisにより私たちにおいて実体化、あるいはフレーム化される。この時に私たちのマインドがトランスフォーメーションされる必要があるのだ。ここに各人の十字架が働く。私たちのマインドは霊(スーパーナチュラル)と魂(ナチュラル)の接点において機能するのだ。

私の言っていること、聖書真理から離れているかな?

追記:もうひとつ指摘しておく。ヤコブの逸話だが、ここで出てきた「天の門」とか「神の家」を例え話と理解する向きがあるようだ。主は「この岩の上にわたしの教会を建てよう。ハデスの門も打ち勝たない」と言われた。これも例え話にするのだ。ノー。現実を見てみよ。地獄の門(ポータル)があちこちに開いているではないか。私たちエクレシアは天の門なのだ。神の国のサブスタンスを現すのだ。それが癒しであり、しるし、不思議の形となる。なぜなら神の国はもともとスーパーナチュラルだから。御言葉を2Dの世界に留めてはならない、神は3Dの世界で実際にわざをされるのだ。実体として。神のサブスタンスであるイエスが目で見え、手に触れたようにだ。

あといったい何度・・・

ファイル 4832-1.jpgファイル 4832-2.jpgファイル 4832-3.jpgファイル 4832-4.jpgファイル 4832-5.jpg

満開の桜や 山の紅葉を

 この先いったい何度みることになるのだろう

        -竹内まりや『人生の扉』

私たちの霊はポータル

・神の国はあなたがたの真っ只中にある。

・神の国は聖霊にある義と平安と喜びである。

ファイル 4831-1.jpg

この図はシェーマとして理解しやすいのでずっと紹介しているが、ひとつ罠がある。霊が閉じ込められてしまっている印象を与えるのだ。アダムの堕落の後霊は死んだが、クリスチャンは再生されている(Born Again)。そして聖霊が臨在されることにより父と子が住まわれる。ゆえに神の国は私たちの内側に存在する。

つまり私たちの霊は私たちの内側に閉じ込められているのではなく、むしろ天のポータルあるいはチャネルとして無限の霊的領域へと開かれているのだ。私たちの霊を通して、神の国はこの時空間に現出する。私たちの霊はどこでもドアのようなもの。そこを通してサブスタンスがフレーム化される。それは神のいのちと統治・力・臨在をもたらすのだ。それは私たちが口を開いて語り出すことによる。語り出された言葉には神の国があるのだ。

「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。-2Cor 4:13

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