ゼカリヤの燭台の幻-安息への招き-

このイメージ、昨日のメッセのゼカリヤの幻(Zech 4:1-2)にフィットするかもだ。七つの各火皿に七本の管から油が注入される。49本の管から供給されるその油で燃えること。まことにYHWHは言われるー

武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。-Zech 4:6

すべてはYHWHの霊による!

対してニッポンキリスト教は日本語のマトリックスで御言葉を弄ぶことから生まれる。責任とかも本来は応答性=responsibility=と言うべきもの。この努力もだ。力を入れて努める? このイメージ、極私的にはあまり好きではない。よく言われる、「信仰に励み」とか。何を励むのだろう? フェイスはむしろ逆だ。

信じた私たちは安息に入る。-Heb 4:3

極私的には、いわゆる早天祈祷や徹夜祈祷、あるいは断食祈祷といった類はあまり好きではないと前から言っている[1]別にその行為自体を否定しているわけではないので一応。。だいたい、祈祷なる日本語があまり気持ちいいものではない。念がこもるというか、恐山の潮来的というか、密教的というか、陰陽道的というか、とにかく正直に言って嫌悪感を覚える単語だ。祈りという日本語もだが、それ自体にすでに色がついている。私たちはいわゆる祈り会も、プレイヤーMTGと称しているが、祈りは本来、会話、宣言、告白、そして霊の呼吸であり、霊の交わりなのだ。

よく聖霊派では「霊の戦い」とか言うが、これもご苦労様と思う次第。われわれはキリストにあってすでに勝利している存在、キリストと共に御座に座す存在、その天的領域からすべての物事を見る存在なのだ。この天的領域を離れて、相手と同じ平面、つまり土俵に乗せられると、もろもろの戦いに巻き込まれる。しかし、祈りは天の領域における決済を受けて、それを地上にもたらすことと分かると、何の努力も不要となる。

なぜ? 私の業ではないから! 天において成ったことを地に現出させるだけ。カギは天で成ったことを理解すること。ゲットすること。天の光に浸ること。もちろんそれを知るために祈る。が、別に念を込めるわけではない。天に上り(アセンディング)、そこで見て聞いたことを、地に下す(ディセンディング)。きわめて簡単なのだ。宗教の観念から解かれよ! 祈りは宗教儀式ではない。まことに主はこう言われたのだ。

わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、(すでに)天でもつながれており、あなたが地上で解くことは(すでに)天でも解かれているであろう。-Matt 16:19(時制に注意!)

努力するな! 休め! 私たちの力が抜けるほどに神のわざが成し遂げられる。フェイスはレストなのだ(Heb 4:3)。レストは安息、それは無活動ではない。むしろ安息する者はますます活動的になる。それはアセンディングディセンディング。キリスト教から解かれよ!

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1 別にその行為自体を否定しているわけではないので一応。

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