すでに主のからし種が育ってどんな野菜よりも巨大になり鳥が巣を作る樹木に至ることの意味を説いた。これは啓示録2-3章の七つのエクレシアが歴史的展開を予言していることとも関係することも指摘した。

軽く復習しておくと―エペソ(=好ましい)においてニコライ派(教団教職制度)の行いが入り、スミルナ(=苦難)で迫害を経験し、ペルガモ(=結合)で世との混合がなされてニコライ派の教えが確立、サタンの座が設定される。続くテアテラ(=香の祭事)でイゼベルが仕切る仰々しい儀式が確立、そこにはサタンの深みが存在し、サルデス(=残りの者)でいわゆる宗教改革がなされるも、実質は死んでおり、フィラデルフィア(=兄弟愛)においてわずかの力でも証しを守り、ラオデキヤ(=民衆の意見)では豊かになった、目が見えるとしつつ、実体はその逆であり、イエシュアを追い出している。

見かけは立派でも、そこには邪悪な鳥や獣が自分のよすがとして集まる場、まさに現在の世のひとつの組織・機関と堕したキリスト教の姿である。この様を私はエジプト・バビロン化していると言ってきている[1]バベルの塔の動機は「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」であった(Gen … Continue reading。その最期は次のように啓示されている:

天使は力強い声で叫んだ。「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、そこは悪霊どもの住みか、あらゆる汚れた霊の巣窟、あらゆる汚れた鳥の巣窟、あらゆる汚れた忌まわしい獣の巣窟となった。
すべての国の民は、怒りを招く彼女のみだらな行いのぶどう酒を飲み、地上の王たちは、彼女とみだらなことをし、地上の商人たちは、彼女の豪勢なぜいたくによって富を築いたからである。」
わたしはまた、天から別の声がこう言うのを聞いた。「わたしの民よ、彼女から離れ去れ。その罪に加わったり、その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。
彼女がおごり高ぶって、ぜいたくに暮らしていたのと、同じだけの苦しみと悲しみを、彼女に与えよ。彼女は心の中でこう言っているからである。『わたしは、女王の座に着いており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない。』
それゆえ、一日のうちに、さまざまの災いが、死と悲しみと飢えとが彼女を襲う。また、彼女は火で焼かれる。彼女を裁く神は、力ある主だからである。」-Rev 18:2-8

物を隠すのにもっとも発見しにくい場所はどこか? それは大衆の目が置かれる公衆の場である。サタンが隠れてその仕業をするには、まさかのキリスト教の中がもっとも適していることは分かるであろう。キリストはキリスト教なる宗教を作るためにロゴスが肉体を取られたのでもないし、聖書はキリスト教の経典でもない。キリスト教の偽善を告発したニーチェは、キリストとキリスト教を同一視したためにあのような最期を遂げたのだ。見事にサタンに騙された末路である。

これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。-2Cor 2:11

悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。-Eph 6:11

この新改訳における「策略」とある原語は、前者はnoema、後者はmethodeiaである。noemaとは意図・動機・思惑であり、methodeiaは方法・手法・姦計である。つまりサタンはその意図や思惑を具体的手法や方法によりこの世界に実体化する。その拠点として、まさにキリスト教は絶好の場である。

怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。-Eph 4:26-27

この「機会」とある原語はtopos、それは足場・手がかりの意味である。サタンはこちらの心の中のtoposをフッキングする。つまりこちらに何か聖霊による以外の意図や動機や思惑がある場合、サタンはそれに応じたエサを投げてくるのだ。決して彼は無理強いはしない。そのエサに喰いつくときも、私たちは自由意志で選んだと思わされるのだ。カルトによるMCやセールスの巧妙なやり方も同様である。そもそも自由意志なるものは幻想である。

まことに次のとおりである―

同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。-Gal 4:3

さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。-Eph 2:1-2

つまり諸霊が我々のマインドに働きかけ、それに応じて意思決定をさせられていたのだ。だから奴隷である。クリスチャンであっても、動機や意図に不純なものがあれば、そこにピンポイントで働きかけてくる。「自分は自分の人生を自分で選んで、誰にも縛られず自由意志によって生きている」などという錯覚に陥ることは致命的である。

イエシュアと物理的に接していたユダもなんの動機や意図だったのかはわからないが、サタンは彼のうちに裏切る「思い」を入れた(John 13:2)。マインドはストイケイア、アイオーン、さらにサタンなどの霊的エンティティとの接点である。それに従って意志決定した彼の末路は言うまでもない。


マルクスも使徒行伝の兄弟姉妹が物を共有し、資産を分かち合っていたとする記述から共産主義の着想すなわち種を得て、それを成長させて思想とし、共産党として政策により実行したのだ。その末路は人類史上最大の虐殺を行ったことは言うまでもない。

エペソでニコライ派の種がまかれ、ペルガモで育ちサタンの座が据えられ、テアテラで中世の暗黒時代、サルデスでその娘たちとも言えるプロテスタント諸教派が生まれたが、まさにキリスト教の巨大樹木化と共産主義の成長は同じプロセスを再現している[2]ニッポンキリスト教とニッポンが合わせ鏡であるように、キリスト教と共産主義も同じと言えるかもしれない。共産主義は立派な宗教である。。どちらもその中で自己の生存の担保(=生活の保障と食い扶持の確保)とアイデンティティおよびプライド(=自己価値の確立)のよすがとする。これが鳥や獣が集まる動機である。

この図はエクレシアの実質(野菜)が諸霊と人間の肉により修飾されて巨大化する過程を描いたものである。現在の問題はエクレシアが巨大化したキリスト教の中に幽閉されていること。キリストと聖書がキリスト教の専有物であるかのようにみなされていることだ。巨木は虚木である[3]これは善悪を知る知識の木の成長した姿とも言える。対してエクレシアはいのちの木の増殖であり(Col … Continue reading。主は「わたしが地に戻るときに地上に信がみられるであろうか」と言われるのだ(Luke 18:8)。


この意味で私は20年以上にわたり、キリスト教をエクソダスせよと訴えている。それはエレミヤ書16章においてイスラエルに呼びかけられているとおりである。啓示録の七つのエクレシアで言えば、フィラデルフィアである。彼らは力はわずかであったが、主によって御名と御言葉を否まなかったとして賞賛され、叱責の言葉はスミルナとともにまったくない。そして神の名と、神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、主の新しい名を書き記していだけるのだ(Rev 3:7-13)。

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1 バベルの塔の動機は「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」であった(Gen 11:4)。まさに現代のボクシたちの切望するところであろう。サタンはこの自分の住処を暴かれることをもっとも嫌うであろう。ゆえに私の指摘にはキリスト教徒からの聖書の論理を無視した感情的反応がなされるであろう。
2 ニッポンキリスト教とニッポンが合わせ鏡であるように、キリスト教と共産主義も同じと言えるかもしれない。共産主義は立派な宗教である。
3 これは善悪を知る知識の木の成長した姿とも言える。対してエクレシアはいのちの木の増殖であり(Col 2:19)、それはブドウの園であり、また一粒の麦の増殖である麦畑である。

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