ヨブの陥った罠は自己(セルフ)の呪縛-メタノイアとはセルフ・ドリブンからスピリット・ドリブンへの転機

善人すぎるな、賢すぎるな。どうして滅びてよかろう。-伝道書7:16

義人ヨブの元々フェイスには穴があった。だから毎朝、息子たちが神を呪ったかもしれないと恐れて捧げものをしていた(Job 1:5)。ついには恐れていたことが降りかかったと嘆いた(Job 3:25)。

三人の友の”正しい助言”に対して”自己の正当性”を訴え、神すら告発した(Job 9:17 等)。かくして「正しさ」の追求と訴えはヨブの悲劇をさらに深める。

が、若者エリフが登場し、人は年を取れば賢くなるものでもないと口を開き、ヨブの思いをYHWHへと向け直す(思い改めへの促し)。そしてYHWHご自身が直接ヨブに迫り、ヨブはついに自分を退けて”נחם;nacham”したのだ(Job 42:6)。

それは「悔い」改めではなく、「深く息を吸う;自分を慰める;いたわる」の意味である。彼は延々と自己正当化せずにおれない自己から解放されたのだ。まさに身心脱落の経験だ。その後の彼の人生はご存じのとおりである。

まことに-

「ただわが身をも心をもはなちわすれて、基督のいへになげいれて、基督のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、基督となる。」-道元:正法眼蔵生死(Dr.Luke改)

「基督道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法(いのちの御霊の法則)に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」-道元:正法眼蔵現成公案(Dr.Luke改)

パウロのロマ書の7章では「わたし」が頻発する。が、8章になると「わたし」はほぼ消える。ここにセルフ(ソウル)・マトリックスからスピリット・マトリックスへの跳躍が起きたのだ。身心脱落経験である。

「悔い改めよ~」、「聖霊様の充満~、油注ぎ~」とヒステリックに叫ぶボクシ自身(だけではないが)が、実は内側に葛藤を抱えている[1] … Continue reading。真にメタノイアあるいはナチャムしてない症候群は強迫的にそう叫んでいないと不安なのだ。真にメタノイアあるいはナチャムしている者はその解放感の中にゆったりと生きる。野の花をいとおしみ、空の鳥を愛でつつね。

生きているのはもはや私ではなく、キリストである、今肉にあって生きている私は・・・御子フェイスのうちに生きている。-Gal 2:20

御子フェイス。そのうちに生きること。これが中動態的生き方、大脳生理学的にはデフォルトネットワークモードである。ここを「御子に対する信仰」とする邦誤訳は果てしない”自己の信仰”呪縛に導くであろう。プロテスタントの根本的病理である。

かくしてキリスト教をエクソダスし得た者は幸いである(セコンド・エクソダス)。残りたい向きはご自由にどうぞ。

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1 かつてホーリネスの老ボクシが来られて、「私は長年信徒さんに十字架を語ってきましたが、実は自分が苦しくてしようがなかった。ルークさんの本で真の十字架を知り解放されました」と証しされた。この方は自分より若いぼくに向かって真実な方であった。

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