ニッポンキリスト教界のある裁判に関する私見

前にもちょっと書いたが、今、ニッポンキリスト教界において、某メディアがジャーナリストの某氏を名誉棄損で訴えた裁判が東京地裁で進行している。昨年末、私も傍聴してきたが、3月には判決言い渡しとなるらしい。ちょっと私見を加えてみたい。

山崎豊子の『白い巨塔』は、かつて1978年に田宮二郎が迫真の演技を演じた後、猟銃自殺を遂げると言う衝撃的な結末を迎えた。里見が胃癌を疑った患者佐々木庸平の術前の肺の白い影について、医局員の柳原がガンの疑いを進言するが、財前は自身の「古い結核の病巣だ」との判断にケチをつけるのかと彼を恫喝し、同時に里見による断層写真の撮影の提案をも一蹴して、胃ガンのオペを強行する。

海外講演に出張するための準備で多忙な時期でもあったこともあり、その後の佐々木の病態の急変にも一度も診察を行わず、海外に出る。その間に佐々木は死亡し、里見の提案で病理の大河内の病理解剖が行われ、ガン性胸膜炎による呼吸困難との所見が出る。そこで遺族は財前の術前診断に誤診があり、術後の治療が不十分であったとして訴えるわけだ。

これに対して、一審では、里見が断層撮影の必要性を訴えたことを証言するも、柳原が自身の進言の事実を否定する。また唐木教授の鑑定もあって、財前の術前検査の不十分さと術後の治療の怠慢について、その道義的責任は認めつつも、医学的には肺の影をガンと診断することの困難さを認め、遺族の主張する法的責任を追及できないとし、遺族は敗訴する。

控訴審では全責任を柳原に押し付けようとする財前に対して、ついに柳原は医局を追放されることも覚悟で事実関係を証言する。しかし客観的証拠がないことを同僚の医局員に訴えると、彼は医局カンファレンスの書記をした際、佐々木の病状について財前が「絶対にガンの転移巣ではなく、オペも100%成功した」と自慢げに語ったことを記録していたことを思い出し、その議事録を医局から持ち出し、佐々木側弁護士関口に提出。かくして財前の術前の転移巣の見落としの診断ミスが立証されて、患者遺族は勝訴する・・・・。

この流れを見ると、あくまでも財前の術前診断と術後の処置の医学的適格性が論点とされており、そこを原告被告が証拠や証人を立てて争うという展開になっている。

ところが、2003年に唐沢寿明が演じたバージョンでは、原告一審敗訴の後、財前の医学的判断と処置のミスを証言してくれる医師を見出すために全国を走り回る関口弁護士は疲労困憊し、控訴審でもはかばかしい実を得ることができないままに裁判は進む。ある時に関口は、ふと何かを思いついたようであったが、尋問すらできずに口を閉じてしまう。

彼は佐々木の妻に、私たちは戦い方を間違えていたのではないか、とつぶやく。つまり彼女が、法廷で展開する議論が難しい医学の知識の応酬ばかりで、自分たちが置いてきぼりにされていると訴えたことで、関口はあることに気づくのだ。

それが唐沢版での論点となったインフォームドコンセントの問題。つまり医学的検査の不十分さや処置の過ちを論点とするのではなく、十分な医学的情報を財前が佐々木側に与えておらず、さらにほぼ財前の都合に基づいて強制的に承諾書に署名させられてオペが行われたために、佐々木は死の準備をする間もなく帰らぬ人となってしまった。もし十分なインフォームドコンセントがなされていたら、術後の佐々木のQOLも確保されて生き方ももっと違っていたであろうとの主張に切り替えたのだ。すなわち手続き上の瑕疵の有無を論点とした。これが功を奏し、その法的責任を問うことにより、財前は法的責任も問われて原告の勝訴となる。

お分かりだろうか。これが裁判の実態である。つまり財前のした行為は動かせない事実であるが、それが不十分かあるいは間違っていたかを判断するのは医学の専門家でも判断が分かれる。まして法律の網を被せて法的責任を追及することはきわめて困難なのだ。単に佐々木の遺族が主張するように、財前の姿勢が不誠実であったとか、柳原や里見の進言を拒否したことを訴えても、法的責任は問えない。

ここで一連の流れをいかに法的に構成するかが問われる。すでに昨年末の記事で述べているが、医学的ファクト(事実)を訴えるのではなく、法的構成を主張する必要があるのだ。そもそも裁判官は医学的判断はできないし、専門家の判断も異なる上、実際の一連の事態も目撃しておらず、あくまでも書面の中の”事実”を見ているだけだからだ。

現在進行中のニッポンキリスト教界における裁判も、極私的にはこれと実に似ている展開となっていると感じている。今回、被告側に立ってふたりの女性が事実関係を証言した。つまり、名誉棄損の違法性阻却事由となる「公共性」、「公益性」は成立しているが、「真実性」ないし「真実相当性」を被告は立証する必要があるが、そのための証人が立てられたのだ。すでにQ軍のY少佐は証人が立てられないことをもって敗訴の憂き目を得たが、今回は証人が立ったことで被告側は優位に立ったかのようである。しかしながら、裁判を傍聴して感じたことであるが、原告側の論点はそこにはないのでは、と懸念を覚えた次第。事実、彼らの弁護士たちは証人の証言に対してはほとんど反応しなかったのだ。

彼らの筋書きはおそらく次のようなものであろうと推測している。「真実性」については証人があえて被告側に有利な証言をすることもあるゆえにほぼ争うことをせず、「真実相当性」について被告側の穴を突いたのではないか。つまりジャーナリストである被告は、流布した内容について十分な取材をし、両者の資料を比較衡量した上で、その内容が真実であると信じるに至っていれば、「真実相当性」は認められる。この点について、原告側弁護士は被告の本人尋問において、「そのメディアはカルトであるから取材しても真実を得ることはできないことはこれまでの自分の経験から明らかであり、十分な裏取りをしていない」と被告自身に証言させたのだ。これを聴いて私は、「ええ?!」と一瞬のけぞったのだが、原告側弁護士の法的構成が読めたと思った。

まさに唐沢版『白い巨塔』の控訴審と同じ法的構成である。すなわち、共に事実関係については水掛け論に陥っているので、これ以上の争いは不毛である。そこで共に手続き上の瑕疵の有無という論点に切り替えたのだ。『白い巨塔』ではインフォームドコンセントの有無を論点とし、本裁判では真実相当性、すなわちプロであるジャーナリストが真実であると信じるに至るまでの手続き上の瑕疵の有無を原告側は論点としている[1]この点、一般人が同じ内容を流布する場合以上の責任がジャーナリストには問われることになろうと考えられる。。この点において財前は不十分であったとされ、このジャーナリストも本人尋問で自らその不十分さを認めさせられた。ニッポンキリスト教界の内的論理としてならば、彼の主張もさもありなんだが、一般社会においてはそれが必ずしも通じるものではないと考えられる。

極私的には3月の判決言い渡しが近づく今、正直に言って、以上のような懸念を有している次第だ[2] … Continue reading

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1 この点、一般人が同じ内容を流布する場合以上の責任がジャーナリストには問われることになろうと考えられる。
2 あえて言うまでもないが、私はこのメディアを擁護しているわけでもないし、このメディアの指導者を巡る一連のスキャンダルなども承知している。が、それと本裁判の論点は必ずしも重なっていないのだ。原告側は極めて訴えのポイントを絞っており、それについては東京地裁がすでに仮処分削除命令を出しているとのことだ。全体としては黒でも各論としては名誉毀損が成立してしまうことがあるのだ。この点、被告側はたとえ自分が敗訴になったとしても、事実が法廷で明らかにされるのであれば本望であるとの趣旨の発言をされている。

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