ニッポンキ業界的「信仰」の罠-聖句か伝統のどちらで生きますか?

FBにおいて、クリスマスについては何らの聖書的エビデンスもなく、単にキリスト教という宗教においてヒトが決めたものと結論が出た。ヒトの決めたことを受け入れて粛々と実行する。ニコライ派たる教団教職制度もイエシュアが嫌うにも関わらず、イエシュアの言葉に堂々と反してセンセイたちが蔓延るキ業界。

彼らは「聖書に忠実に生きなさい」と説教を垂れ、日本のリバイバルを希求するとアジる。わかるかな?自我分裂の極致にいるわけ。鬱病牧師や燃え尽きボクシが大量生産されるのも当然だ。そしてボクシを支えようと言い出す倒錯現象。一方の羊たちも彼らに飼育されていれば当然クルシチャン化し、病む。これがニッポンキ業界。

ある日基のボクシが、私たちはキリスト教という枠の中で極限まで神を追求する、といったことを言ったが、残念ながら極限はそのもの(実体)ではない。永遠にサブスタンスはゲットできない。だから「もっと神様と近くなりたい」と言う。

砂上の塔。

聖書的には二心(=dipsuchos:魂の分裂)だ。聖書はこう言ってるね:

「二心の者は安定性を欠き、主から何かをいただけると思うな」-ヤコブ書1:6-8

ルターが「木・草・藁の書」として嫌った書ではあるが、フェイスと行動はスネルゲオすると当たり前のことを語っている(James 2:22)。その人の行動はすべて心にあるフェイスの反映、現出である。そしてフェイスとはサブスタンス&エビデンス(Heb 11:1)。サブスタンス&エビデンスのない信じ方は盲信、狂信である。

信仰の罠。

宗教マトリックスにハマると平気で実体も証拠もない”事”を信じかつ実行する。まことに霞を食ってるようなものだ。イスラエル人が40年間荒野をさ迷ったのも同じ。主はマナを降らせたり、ウズラの大軍を送ったりして養っては下さったが、ほとんどの者はそこで絶え果てた[1]それらはまさに霞のようなものだ。仮に彼らを養うためのものに過ぎない。。なぜなら信じなかったから。

「だから、聖霊がこう言われるとおりです。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、荒れ野で試練を受けたころ、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。荒れ野であなたたちの先祖は/わたしを試み、験し、/四十年の間わたしの業を見た。だから、わたしは、その時代の者たちに対して/憤ってこう言った。『彼らはいつも心が迷っており、/わたしの道を認めなかった。』そのため、わたしは怒って誓った。『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』と。」-ヘブル3:7-11

良き地に入るカギはフェイスだ。これを「信仰」と訳すニッポンキ業界の罠。ゆえにすべて対格に訳される。そこで「私の信仰を強めて下さい」とか「信仰に励め~」と煽る。

今回、「クリスマス」によってキリスト教の病理が明らかになった。いずれハロウィーンも当たり前に侵食してくるであろう。ワクも当たり前に煽り、打つことを実質的に強制するボクシもいるらしい。

思考停止。

フェイスはサブスタンスであり、そのプラグマのエビデンスである(Heb 11:1)。邦誤訳によりMCされてるとこれが見えなくなる。上のクリップなどはとても理解できないであろうが、一応貼っておこう。

セコンド・エクソダスできた者は幸いである。

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1 それらはまさに霞のようなものだ。仮に彼らを養うためのものに過ぎない。

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