本日のとある裁判を傍聴した感想
FBよりの転載:どちらが有利不利はここでは触れないでおくが[1]被告は仮に敗訴になっても法廷で真実が明らかになることを望んでいると発言している。、裁判なる舞台では原告被告どちらも事実のある部分を切り取り、ストーリーを構成する。そのための証拠と証言も裁判官の一存(心証)で採否が決まる。
最終的にどちらの主張も書面に落とし込まれるが、それは血肉による生の事実ではなく、文章で組み上げられた人工的な”事実”である。つまり記号だ。裁判官はそれを法的論理で評価する。現場を見ていないのだから、書面の中の”事実”で判断する他ない。まさに『マトリックス』の世界。これが裁判というものだ。
私(ひとりででないが)もかつてバブル時代の海外不動産投資の焦げ付きで、原告団を10名ほどから千人ちょっとまで組織して、総額38億の負債を消滅させ、7億5千万の和解金をゲットしたことがある。その弁護団は共産党系。彼らは社会正義にかけてはものすごい情熱を発散する。他の原告団は残債300万程度で手打ち。
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つまりは、同じ事件でも、訴訟結果は全く異なるのだ(訴訟の独立性)。この意味で、いかなる法的構成をなすか、ここで弁護士の力量が問われる。事実認定はその構成次第だ。いわゆる正義が勝つわけではないのだ。
もっと言えば、社会的正義感や、キ業界的異端論などを持ち込める舞台ではない。このことを知らないから、司法は無常だ~とか、信頼できない~とか叫ぶことになる。そもそも裁判とはそういうものであることをまず認めること!
要するに、あなたは赤のカプセル、それとも青のカプセル、どちらを選びますか?ってお話なのだ。
まことに世は浮世狂言ではある。
References
↑1 | 被告は仮に敗訴になっても法廷で真実が明らかになることを望んでいると発言している。 |
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