「意味」の病理

この記事は最近のカルト問題やハマス事件などの「意味」を説いたものだ。

昨日根田氏がCTに訴えられた裁判傍聴をして、CTの背後にはダビデ張の「共同体」があることは今回の証言で確認できた。人はどこかに所属し、関係性の中にいないと自分の意味や人生の意味を喪失する。あの京アニの犯人などはその所属性を失い、自分や人生の意味を失ってしまったのだ。

この点、宗教は一見、その「意味」を提供することができる。ニッポンキリスト教でもさかんに、「あなたは愛されるために生まれた」とか、「あなたは神の目に高価で尊い」とか、「あなたには神の定めた高い使命がある」などと、いわゆる「福音」を喧伝する。そしてキョーカイにつながりましょうと誘う。

ところがしばしばその「意味」はきわめてローカルである。つまり特定の教団や神学の派やキョーカイの中で通用するだけ。だからそこを離れると、失われたとか、神に捨てられた、とかレッテルを張られる[1] … Continue reading。ある方はボクシに意見したところ、「自分の啓示を受け入れないなら命の書から名前を消されるゾ」と言われたとか💦

社会でも民主党をはじめ参政党などの新党が乱立し、一時は輝くものの、たいていは内部崩壊あるいは自己崩壊することを繰り返しているが、これもまた「意味」の共有に失敗した例と言える。「意味」がコマ切れにされてしまうのだ。

またしばしば伝道や奉仕が自分のアイデンティを担保するための自己満足に過ぎないことがニッポンキ業界ではよく観察される。「神っ様のために~」が表看板で、実は「自分のために~」に陥ってるわけ(自己目的化の罠)。ボクシが御言葉に逆らってもガウンを脱げないのも、シントが自分の召命とかを手放せないのもそのため。時に競合心や嫉妬心がムクムクと湧き上がるのはその病理の兆候だ。

極私的には、イエシュアを受け入れ、内なる渇きが癒され、満足と平安を味わいつつ、人生を楽しく生きているが、別に「意味」を見出したわけではない。というか、「意味」を考える必要が亡くなったと言う方が正確。幼子が母親の懐に戻れたというきわめて原初的安心感を得たのであり、高い「神の意図」などは恐れ多くて理解できない。名画『ベン・ハー』においても、ユダ・ベン・ハーが「神意は計りがたい」と独白する場面がある。極私的にもまさにこの気持ちである。

ただイエシュアや聖書について語ることは実に躍動感のあるジョイであることは言えるが、果たして神からどのような評価を受けるのか、まったく分からない。極私的には楽しいから語っているだけ。「自分のやってることは高邁な意味がある~」とか自己宣伝するむきは、極私的にはご遠慮だ。思い込みと押しつけがましさが激しくてお付き合いはとても無理。だから「日本民族総福音化決起集会~」とか、「日本のリバイバルために自分を燃やし尽くせ~」とかやられると萎えてしまう。その延長線上にWW2の日本基督教団統理富田満のアジ演説が聞こえてくるからかもしれない。

「意味」の病理、現代はそれぞれの有する「意味」がアトム化してシェアすることできない、あるいは見い出せない時代なのだ。

ちなみにこれは20年前に書いた予言的論考。

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1 素粒子は別の粒子を交換することによって結合する。エクレシアはもちろんただキリストを共有することによるのだ(☞霊的交換力による御体のひとつの実現)。

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