日本的霊性-禅と日本文化-

今回、何度か訪れている岡田茂吉のMOA美術館を訪問した。広重の浮世絵展と仏教展を開いていた。まあ、岡田の開いた宗教はともかくとして、美術館としては一級である。そのスケールも壮観である。

で、少々Dr.Luke的日本文化論を-

日本人は論理を超えた世界に生きている。これが日本画であり、日本庭園であり、生け花であり、茶道であり、花道である・・・。

仏教も元々は礼拝対象などは持たないし、葬式などを仕切ることを釈迦は厳に戒めた。もちろん自分を拝することもだ。その本質は

究極の認識論だ。

今見ている仏教は、マリヤ像を作るキリスト教と同様に、仏像を作り冠婚葬祭を商売とする宗教ビジネスである。

本来、「仏」とは宇宙の真理であり、それは直覚(感)によって会得すべきもの。まさに

”Don’t Think, FEEL!”

の世界である。これを鈴木大拙は「」と言った。英訳では”As-It-Is-ness”だ。「事の在り様のまま」を知覚すること。

禅では「不立文字」として、解説したり理屈を弄することを嫌う。そこで大拙は禅の本質は「即非の論理」である称した、つまり「AがAでありかつAでない」世界、論理記号を弄するなら、「A∧¬A‡Φ」なる世界だ。ソレは論理を超えている。

が、最近の量子論的世界(観)はまさにソレなのだ。大拙の盟友西田幾多郎的には「絶対矛盾的自己同一」。知恵の木の実を食った人間の論理のフレームに「存在」は決して収まらないのだ。

また面白いことに大拙は、「わしはイエスが覚者(=仏陀)であることは分かるが、聖霊というものがどうしてもわからん」と告白している[1]仏陀はある個人の名ではない。覚醒し得た者たちの総称である。。大拙はスウエデンボルグなども研究し、『新エルサム』という本までも書いているのだ。が、そこまでだった。聖霊を知ることなしに、「イエシュアを経験する」ことはできないからだ。神学知識はいくらでも仕込むことはできるけどね、牧師たちのように。

そして晩年、こう言った、「わしは語り過ぎた、タタタターはいずこへか飛び去ってしまった」。日本庭園や日本の書画を見る時、ぼくはそのタタタター、すなわち「如」に触れることができる。

そしてクリ的には創造主なるお方は「YHWHエロヒム」である。それを「大日」と訳し、さらに最近では「かみっさまわ~」とチャントしてるが、この名前の歪曲から、葬式仏教と同様に、いわゆる俗世キリスト教に陥ったのだ。

YHWHとは”I-AM”、これはその方の固有名詞だ。私は従って、邦語的には「」としたいところである。他の何モノにもよらず「ありてある(HAYA-ASHER-HAYA)」お方である。そしてもう一歩突っ込むなら「」とも言えるだろう。

そしてこれを僕的には大拙と張り合うつもりはないが”As-Being”としておきたい。宇宙の究極の真理とは「わたしが真理である」と言われた、ロゴスがフィジカル領域に現出(受肉)されたイエシュア(「YHWHがわが救い」の意)である。真理とはギ語では「アレセイア」、それは梵語ならば「仏」である。

なお、ぼくがシンクレティズム(宗教混同)を説いてるなどとしたり顔で批判する、仏教の本質を知らない無知なニッポンキリスト教徒を相手にするつもりはないので、そこんとこヨロシク😎 それでもなお、議論を吹っ掛けるなら、せめて最低限、道元の『正法眼蔵』は読んでからにしてくれと言っておく。極私的には「かみっさまわ~」などとチャントする向きの方がよほどズレてると思う次第。

ちなみに私の漢詩が禅的あるいは老子的、すなわち無為無心的世界であるとAI君は見事に見抜いたが、まさにそのとおりである。陶淵明などはマイフェイヴァリット。幼稚にして空理空論の神学論争で互いに相手を異端とし、論敵を火あぶりまでする白きキリスト教をご免被る私の精神性がご理解いただけると思う。

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1 仏陀はある個人の名ではない。覚醒し得た者たちの総称である。

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