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トップ > 2009年11月15日

魔性のリーマン予想

ファイル 1131-5.jpg今晩のNHKスペシャルはすごかった。「リーマン予想」に取り憑かれた数学者たちの悲劇の運命。「フェルマーの定理」は数年前に完全に解けたのだが、こちらはまだ。2004年に解けたと宣言した数学者もいるが、まだ他者の吟味をクリアしていないようだ。ちなみに「リーマン予想」とは、素数についてリーマンが1895年に予想した定理。次のようになる:

ゼータ関数
ファイル 1131-1.jpg
の非自明なゼロ点の実部はすべて1/2上にある。つまり非自明のゼロ点を与える複素数は

ファイル 1131-2.jpg
の形である。なお、自明のゼロ点とは-2,-4,-6・・・などの負の偶数。

定理の内容自体はフェルマーの定理と同様にきわめて単純。が、証明ができない。十分性は示されているが、必要性が。現在までにコンピュータ実験により、虚部が小さい方から約15億個までの複素零点はすべてリーマン予想を満たすことが分かっているが、それはまだ有限の世界。

さらにすごいことは、素数の間隔の分布が量子のエネルギー順位の分布と同じ数式であること。一方は整数論の世界、他方は物理学の世界。その一見無関係な世界での法則が同じであること。ここから宇宙の創造の神秘の暗号が素数には埋め込まれていると、数学者も物理学者も考えているのだ。かつてピタゴラスが、宇宙は数である、と言ったが、まさにその世界。神は何かのメッセージを素数にこめているのかもしれない。

そしてもっと不思議なのは、それをわれわれの大脳が理解できると言うこと。宇宙は数学で記述できるが、なにゆえに大脳はその宇宙の言語である数学を生み出し得るのか。私的には神がア・プリオリに埋め込んだと思えるのだ。多分、私の大脳にも埋め込まれているのだろうが、それを見出すことができない。それができるのがいわゆる天才。だからわれわれ凡才も、天才の発見を追体験することはできるわけ。

しかもその素数は、現在のネットの暗号化技術の核となっている。私が20%の真のエリートを作れと言っている理由はここにもある。あとの80%はその上に乗って生きることができるのだ。

注:ゼータ関数は
ファイル 1131-3.jpg
とも書ける。なぜなら
ファイル 1131-4.jpg
の積を展開すれば容易に分かるとおり、素数の積からすべての整数が作られるからだ。

楽しむ

気持ちのイイ走りができました。これからが楽しみの本番です。

さて、実に面白い記事です。かの再建主義の富井氏がこう書いておられる:

形を整えることによって、自分が信仰を深めたような、神に近づいたような気持ちになるから。
私は、ロヨラや、ケンピス、ジョン・ウェスレーに同じものを感じる。
敬虔さを強調し、生活の聖さについて多くのことを語るが、信仰義認が出てこない。
自分の内面への洞察は出てくるが、イエスによって罪赦されたことの喜びについての言及が少ないかまったくない。
ずれているのだ。焦点がイエスではなく、自分に向いている。
こういう伝統が西洋のキリスト教にあるのだ。我々は、注意しなければならない。
この世界に存在するものは、「楽しむために」あるのだ。

だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。(イザヤ65・18)

自分から進んで苦難に向かうとか、苦しみを愛するとか、そういったマゾヒズムが、ヨーロッパ流のキリスト教にはある。
これは、ひとえに神の法から離れたからだ。
基準が自分の目、思想にあるからだ。
だから、神が定められたものではなく、自分が決めたものを忌避して自己満足するのだ。
キリスト教とは言っても、基準が神の言葉にないものは、いかに敬虔そうに見えても、実は悪霊の教えなのである。

なんと私がいつも言っていることではないですか。が、彼の言う「神の法(Law)」とは「超民俗化されてヴァージョンアップしたモーセ律法」なのです。対して私は、モーセ律法はレビ系の祭司制度と共に廃止され、いまやメルキゼデク系祭司制度が導入され、いのちの力によって立てられた大祭司キリストの御霊による「いのちの御霊の法則(Law)」だ、と言い続けているわけです。もちろんそれはモーセ律法の内実を無効にしません。むしろいのちの御霊に従うとき、私たちはモーセ律法をまっとうするのですから。それはWinodwsの中にMS-DOSが包含されているのと同様です。WindowsがあればMS-DOSは不要でしょう?Am I right?

私は「再建主義」自体には危険な要素を感じていますが、富井氏自身にはある種の評価をおいております。彼とはいつの日か、ただ主にある兄弟として「主義」を超えた交わりができることを願っているものです。

追記:彼の懸念する傾向はウォッチマン・ニーなどにも見られます。

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