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荒野に宴をもうけ

ファイル 3677-1.jpg


ウォッチマン・ニーの黙想


 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの知的な礼拝です。-ローマ12:1

 この節は私たち個人のレベルを超えて、全体に益になるところまで私たちを導きます。「捧げる」ことは個人のことですが、礼拝(奉仕)は全体のことです。主の元に捧げられる多くの体があります。しかし、その結果は一つの生ける供え物です。すべての神に対する知的な、あるいは合理的な奉仕とはこのようなものです。それは本質的にはひとつの奉仕であるのですが、私たちも個人個人としてその中に分を持っているのです。誰も自分の捧げ物が価値のないものであると考えるべきではありません。なぜなら、それは多くの個別の捧げ物の中にあって、大きかろうと小さかろうと単独のものとはみなされないからです。それぞれのいのちは主に明け渡されるべきものであり、それらがひとつになって完全なるものとされ、神に受け入れられるものとなることを確信すべきなのです。そして神が満足されるのであれば、どうして私たちが満足を覚えないことがあり得るでしょうか?

漢詩の魅力

ファイル 3678-2.jpg

それは、写真と同じだ。その時・場所・瞬間・感動を印画紙(最近はデジタル・データ)に焼付けておける写真と同様、文字の世界として凍結しておけるのだ。もっと言えば、この否応なく過ぎ去る時間を止めることができる。人間の根源的欲求である生きていたい、つまりこの生を慈しみ、楽しみ、嘆き、歓喜する、その営みの結晶と言える。クリスチャンの経験は多分、子羊のいのちの書に記されるのであろうが、この地上においても、なお、自分の生の証しを留め置きたいという切ない願い。誰もが持っていることであろう。詩人をして創作意欲を生み出すのは、まさにこの瞬間の生の感動なのだ。

ファイル 3678-1.jpg

人生は根蒂無く
飄として陌上の塵の如し
分散し風を追って転じ
此れ已に常の身に非ず
地に落ちて兄弟と為る
何ぞ必ずしも骨肉の親のみならん
歓を得ては当に楽しみを作すべし
斗酒 比隣(ひりん)を聚(あつ)む
盛年 重ねて来たらず
一日 再び晨(あした)なり難し
時に及んで当に勉励すべし
歳月 人を待たず

「時に及んで当に勉励すべし」-人生は長くはないのだから、時を捉えて一生懸命勉強すべきだ、ととらえた人はかなり宗教の霊にやられている。聖書の言葉も文脈をはずすととんでもない誤解により自滅する。ニッポンキリスト教徒に多い例だ。日本語で聖書を理解してはならない。漢文においても、たとえば「故人」とは、「亡くなった人」ではない。「友人」なのだ。かくして陶淵明は何を励めと勧めたのであろうか。文脈を見れば明らかであろう。人生を楽しめと言っているのだ。はたして主イエスは、キリスト教徒たちが自分の言葉を勝手に解釈してクルシチャン化していることをどう感じておられるのであろう?

注:絵は無弦の琴を手にする陶淵明。目に見える手段や方法に囚われないで心の中で琴を弾ずることができたという。中島敦の弓を忘れた弓の達人を描いた『名人伝』を彷彿とする。

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