祭司制度の変更は律法(Law=法則)の変更を伴う
しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの思い(原語)にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。-エレミヤ31:33
わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。-エゼキエル36:26-27
レビ系祭司制度のモーセ律法(The Law of Moses)は石に書かれ、われわれの外側にあり、要求するだけだった。それはそれを守るいのち(Zoe)を与えなかった(Gal 3:21)。キリストはそれを100%守られ、いのちの力によりメルキゼデク系大祭司となられた。
メルキゼデク系祭司制度―Dr.Luke from Luke Osamu Karasawa on Vimeo.
祭司制度が変更されたので最初の律法は破棄されてLawも変えられた(Heb 7:12)。メルキゼデク系のいのちの御霊の法則(The Law of The Spirit of Life)はわれわれの内側に書かれ、それを守る霊の力をも与える。
いのちの御霊の法則に乗るとき、モーセ律法は自ずと満たされる(Rom 8:4)。すべて自動化されたWindowsを使うときに、MS-DOSも作動しているのと同じだ。つまりいのちの御霊の法則はモーセ律法の上位互換である。
われわれはモーセ律法に責任(=肉に対する責任)を負うのではなく(Rom 8:12)、御霊に対して負うのである。御霊は体の働きを殺し(Rom 8:13)、肉(=体+魂)を無力化する(Gal 5:17)。メルキゼデク系においてはレビ系のモーセ律法をあえて持ち出す必要はないのだ[1] … Continue reading。
ただし、Windowsでも時に応じてMS-DOS窓を使うように、モーセ律法を参照したり、手引きにすることは自由である。その要求は既に満たされているゆえに、もはや罪責感や恐れを覚える必要などはなく、元々モーセ律法も人をその中に守るためのもの(養育係)だったのだから(Gal 3:24-25)。だからわれわれは律法を慕わしく思うものだ(Ps 1:2)[2] … Continue reading。
References
↑1 | 再建主義ではモーセ律法をそのまま司法立法とする。新約においてユダヤ人にのみに与えられていたモーセ律法は超民族化・普遍化されたと主張する。しかし、最初のものは廃止されたと明確に書いてある。キリストがモーセ律法の実体として私たちの霊のうちに住まわれるのが新約である。その結果、われわれを通して神の意志がなされ、神の国が地上に拡大するのだ。 |
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↑2 | この点、福音派の無律法主義は誤りである。律法は神の聖の表現であり、神の知恵と知識の宝庫である。レビ系ではそれを実体化する聖霊は与えられていなかったが、メルキゼデク系ではわれわれに与えられている。だから旧約の偉人たちが得られなかったものをわれわれは得ており、われわれによって彼らは完成されるのだ(Heb 11:39-40)。 |
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