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Tag: 波動
量子力学とフェイス
量子の状態は波動関数Φとして、線形作用素ハミルトニアンHの固有関数として定義される。それはヒルベルト空間のベクトルであるが、その固有値λがエネルギー順位である。つまり―
HΦ=λΦ
私たちが観測するまでは、状態関数は量子化されている限りにおいてあらゆる可能性を有する。しかし観測した時点で、波動関数は決定され、その固有値λであるエネルギー順位も決まる。これは場の理論として説明されている。
霊的サブスタンスも同じなのだ。罪のゆるし、病のいやし、必要の満たしなど、天の領域はあらゆる可能性を持ちつつ、霊的場における霊の波動関数として展開している。それはすでに成就された事実。霊的真理。が、ある人は癒しを受けず、ある人は末期ガンすらもきれいに癒される。なぜ?
要するにフェイスなのだ。量子力学においては「観測」という人間の側の働きかけが量子の状態を決定する。同じように霊的領域においてはフェイスという人間の働きかけがサブスタンスの状態を決定する。十字架で成し遂げられたあらゆる可能性が、それぞれの人のフェイスによってこの五感の領域に実体化あるいは物質化される程度は異なるのだ。神が不公平なのではない!問題はフェイスの有無だ。
すでにすべては成し遂げられている。永遠は完成している。その永遠の領域におけるあらゆる可能性として展開している霊的波動(バイブレーション)をキャッチして、今、ここに、実体化するパワー、それがフェイス。まことにヘブル書にこうあるとおりだ―
今、フェイスとは願う事柄のサブスタンス、目に見ていない事柄の立証である。―Heb 11:1(私訳)
それはキリスト教なる宗教のオハナシなどでは全くない。量子力学が宗教ではないのと同じだ。
<フェイスの覚醒>
フェイスによる霊的サブスタンスの実体化。空理空論的キリスト教神学など学ぶより、量子力学を学んだ方がどれほど益になることであろう。
マインドとスピリットの波動の場―マインドを音声化する装置ができた
メッセでも語っているが、われわれのマインドは個人のブレインに限局されているわけではない。霊的領域においては波動としてある広がりを有している。これはちょうど電子などの素粒子が粒であり、波動であるのと同様である。電子は波の性質も有し(つまり広がり性)、粒子の性質も有している(つまり局在性)。
だからセレブなどの場においてフラストレーションや批判的なマインドを有していると、それはちょうど粒子のように限局化され、しこりとなってしまう。すると聖霊の波動を共有できず、その人はその場にいても神のタッチを受けることができない。霊がその人の周囲ではじき返されてしまうのだ。また憎しみ・嫉妬・妬みなど霊によって満たされたマインドは、苦い根として、その場を汚ししてしまう(Heb 12:15)。
ジーザスも人のマインドをご自分の霊で読み取られた。それは霊がマインドの場を感知できるからである。人がなぜ同じ場にいて神の臨在を感じる/感じない、神のタッチを受ける/受けない、また癒しを受ける/受けないのか、その差はまことにマインドのあり方に懸かっているのだ。その人のマインドが霊の波動を阻害している。まことにマインドを凝り固めてはならない。つねに溶かしていただくこと。柔らかいパウダーのように・・・。
きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。-Heb 3:15
宇宙はバイブレーションだ
これは霊的にも同じ。神の霊と私たちの霊の波動が共振すること。これがワーシップである。神は霊であるから、礼拝する者も霊と真理による。神はこのような礼拝者を求めておられる。いのちの霊のバイブレーションにリゾナンスすること。それはキリスト教などではないのだ!
その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。-Ps 19:4
この「響きと」は「弦」。バイブレーションだ。 神は言葉により宇宙を支えておられる。
霊のバイブレーション
父なる神を感じる。
手で感じる。
神の呼吸を感じる。
神の息吹きを感じる。
内なる神の霊の波動を感じる。
物質界はすべて場の波動。
電磁場のバイブレーションをTVやスマホは映像や音声として実体化する。
霊の場のバイブレーションを私たちの霊は言葉や行動として実体化する。
人は神のバイブレーションを受信し、それをこの物理的世界に現出させるために創造された。
地と生き物を治めよ、と。
霊の波動をとらえ、語り出す。時には言語化(預言)し、時には異言として。
それは霊であり、いのちである(John 6:63)。
一度神の言葉が語り出されたら、それは無益には帰らない(Isa 55:11)。
それは何かをチェンジし、癒しまた活かし、ないものを生み出す。
ロゴスは肉体として幕屋を張った(John 1:14)。その方が人間としての機能をデモンストレーションされた。
私たちが同じ道を歩むために。それは死を支配し、いのちをもたらすこと。
自己から解かれるとき、神の霊に浸る。
パウロが第三の天に挙げられた経験は、今もなお、ある!
霊の世界のサブスタンスをこの物理的世界に現出させること。
神の国が目に見える形で現されることだ。
やばい・・・
David IckeとJill Bolt Tayler、そして道元
Jill Bolt Tayler博士の『奇跡の脳』についてはすでに紹介している。左脳の機能を出血によって損傷した彼女は、右脳のすばらしい世界を発見する。
脳卒中により、わたしは内なる自分を発見しました。ほんの少し、考え方や感じ方を変えるだけで、深い心の安らぎが得られることに気がついたのです。
・・・「今」と「ここ」しかない、安らかな右脳マインドの意識と人格を思い起こすさまざまな方法を、あなたにも教えてあげたい。
内なる安らぎを体験するためにわたしが最初にするのは、自分がより大きな構造の一部であることを思い出すこと。いいかえると、決して自分と切り離すことのできないエネルギーと分子の、永遠の流れの一部であることを思い出すこと。自分が宇宙の流れの一部だと気づくことによって、自分を包み込む全体と一心同体なのですから、自分が危いなんて感じるはずがありません。
右の脳は全体像を感じ取り、自分の周囲や、自分の内部のすべてのものは、宇宙という織物に織り込まれていたエネルギーの粒子で作られていることを理解しています。あらゆるものがつながっているので、わたしの周りと内側の原子の空間と、あなたの周りと内側の原子の空間との間には、わたしとあなたがどこにいても密接な関係が生じます。エネルギーのレベルでは、もしわたしがあなたを思いやり、好ましい雰囲気を伝え、あなたを精神的な光で包み、あるいはあなたのために祈れば、わたしは意識的に癒す目的でエネルギーを送っていることに成ります。
もし、右脳マインドの奥底で感じる気持ちを一言で選ぶなら、わたしは「喜び」と言うでしょう。
結局のところ、わたしたちが体験するものはすべて、わたしたちの細胞とそれらがつくる回路の産物です。ひとたび、いろんな回路が、からだの内側でどんなふうに感じられるかに耳を澄ませば、あなたは世界の中でどうありたいかを選ぶことができます。個人的には、恐れや不安を抱くときのからだの中の感じが大っ嫌い。・・・
わたしが一番好きな恐怖の定義は「誤った予測なのに、それが本当に見えること」。
左脳はシーケンシャル。つまり論理の鎖として現実を理解しようとする。対して右脳は今、ここで、直感的にすべてを把握する。いわゆる恐れや不安は左脳が作り出す幻想なのだ。左脳が出張るとこうした感情や思い煩いにより幸福感を失う。左の脳の機能の損傷を受けた彼女は、それにより真のハッピネスと深い平安を知ったのだ。実に面白い。
そしてこれはDavid Ickeの指摘するところと同じ。要するに現実をどう捉え、自分の中でどうアセスメントし、それに対して反応するのが感情であり、体がそれにまた反応するのだ。人は過去の罪責感と未来の不安によって現在を生きることができなくされている。人間にとってのリアリティとは「今、ここ」だけなのだ。今、ここに、いかにあるか、これが人間の実存状況である。それはエネルギーの海に浮かぶこと、宇宙全体と溶け合うことだ。以上がIckeの主張の趣旨。
さらにこれは道元ともつながる。以下、『正法眼蔵-現成公案』から。
身心を挙して色を見取りし、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども、かがみにかげをやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず、一方を証するときには一方はくらし。
仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわすするといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心、および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長々出ならしむ。
しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへども、前後裁断せり。
彼らはもちろん永遠のいのちを得ているわけではない。あくまでもアダム系列の中での経験であるが、それでもいかがだろうか。ニッポンキリスト教のクルシチャンたちよりもよほど解放され、幸せであろう。鍵は何か。「今、ここ」の意識に生きること。神ご自身もI AM。神は過去あるいは未来の存在ではない。永遠の今にいますお方。イエスも言われた、エゴ・エイミーと。わたしはある、と。
自分の小さな世界を出よ。神学だとか、伝統だとか、儀式だとか、そんなものは形に過ぎない。左脳の産物だ。生ける神は今ここにいます方。信仰も今、ここにある。すでに天の領域ではすべてが完成しているのだ。そのサブスタンスをゲットする鍵はマインドのトランスフォーメーションにある。霊を解放すること。特に異言はわれわれを左脳から解き放つ。内なる霊の波動あるいは振動あるいはエネルギーをそのまま音声にして表現することだから。左脳の呪縛を解かれる人は幸いである。
-David Icke - Opening To Awareness...Beyond Mind To Consciousness
-The Neuroanatomical Transformation of the Teenage Brain: Jill Bolte Taylor
螺旋と生命
DNAが二重らせん構造であることは誰もが知っている。このらせんを横から平面に投影すると正弦波になる。要するにサイン曲線だ。複雑な音波や電磁波などもフーリエ級数として、サインとコサインの無限和として展開できる。さらにフーリエ変換により時間の世界と周波数の世界を行ったり来たりできる*1。つまりサイン曲線(単振動)は自然界を記述する素とも言える。そのさらに素はらせんだ。下で紹介した秋山氏も清田君も共にらせんと生命現象の密接な関係を主張している。
清田君は呼吸との関係を指摘し、らせんは膨らんだり凹んだり、要するに呼吸と同じだ。呼吸が整うと念が整うという。これは禅でいう、調息、調心、調身に通じる。心の状態は呼吸で分かる。つまり息とは<自+心=自分の心>なのだ。禅僧が座禅を組むとき、呼吸数は2-3回/分程度になり、脳波はアルファ波(10Hz程度)状態となる。スプーンが切れる瞬間はこのような状態になるようだ。実に面白い。イエスもおそらくこのような状態を絶えずキープしていたのだと推測する。
加えて、息(いき)の重要性と歴(れき)の重要性の指摘も面白い。日本の陰暦が生命現象とリンクしているのだ。もちろんユダヤ歴も陰暦なわけで。実際、東京医科歯科大の元教授角田博士は右と左の脳の研究で有名だが、この使い分けが月齢とリンクしていると指摘しているのだ。いわゆる現在の太陽暦はもしかするとSDAの主張するように、神の御心とは沿っていないのかもしれない。
私もかつてこんな記事を書いていた、どうもあながち外れてもいないようだ。
清田君に言わせると、昔の日本人は神を信じていたが、現代は紙を信じている。その紙によって支配されている。常識の世界を飛び出してみると自然がより豊かに見えたりする・・・。これ、今週の私のメッセの内容とかぶるわけ。私も男は最低でも年収1千万はとって当たり前とかの価値観に生きてきたが、12月のあの3日間以後、より根源的な価値観に戻されつつあるのだ。紙の世界で終わりたくはないわけ*2。
それにしても聖書はやはりすごい。「キリスト教」という宗教に束縛されているクルシチャンはお気の毒だが、クリスチャンはわれわれの思いをはるか3に超えるものを得ているのだ!これに覚醒することはやばい。サタンがもっとも隠しておきたいところだ。
*1:霊の世界と物理的時空間を往復する(アセンディングとディセンディング)信仰は、言ってみれば、一種のフーリエ変換のようなものだ。
*2: 別に「きよく・まずしく・うつくしく」を志向するつもりはまったくない。否、むしろケタを上げるつもりだ。ただし、世の法則によらず、霊の法則によって、だ。ついでに、目的も念押しすると、神の国のためだ。
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