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Tag: 場の理論

マインドとスピリットの波動の場―マインドを音声化する装置ができた

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-The device that eavesdrops on the voices in your head: Mind-reaching machine could soon turn your secret thoughts into speech

私の本『神の新創造-聖書が啓示する自然法則を超えるマインドのパワー』でも書いているが、われわれの魂(soul)の機能であるマインドは、霊(spirit)と共に相互作用し、ある種の波動、バイブレーションの場を生じる。電磁波は電場と磁場が交互にバイブレーションにしつつ真空中を伝搬する波動であるが、それと同じ。

メッセでも語っているが、われわれのマインドは個人のブレインに限局されているわけではない。霊的領域においては波動としてある広がりを有している。これはちょうど電子などの素粒子が粒であり、波動であるのと同様である。電子は波の性質も有し(つまり広がり性)、粒子の性質も有している(つまり局在性)。

だからセレブなどの場においてフラストレーションや批判的なマインドを有していると、それはちょうど粒子のように限局化され、しこりとなってしまう。すると聖霊の波動を共有できず、その人はその場にいても神のタッチを受けることができない。霊がその人の周囲ではじき返されてしまうのだ。また憎しみ・嫉妬・妬みなど霊によって満たされたマインドは、苦い根として、その場を汚ししてしまう(Heb 12:15)。

ジーザスも人のマインドをご自分の霊で読み取られた。それは霊がマインドの場を感知できるからである。人がなぜ同じ場にいて神の臨在を感じる/感じない、神のタッチを受ける/受けない、また癒しを受ける/受けないのか、その差はまことにマインドのあり方に懸かっているのだ。その人のマインドが霊の波動を阻害している。まことにマインドを凝り固めてはならない。つねに溶かしていただくこと。柔らかいパウダーのように・・・。

きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。-Heb 3:15

参考:霊の機能と魂・体の相互作用について

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トーラス-霊と魂の場

この図形、トーラスと呼ばれている。いわゆるドーナツだ。赤い線をメリディリアン、桃色の線をロンジチュードと言う(球面の緯度と経度に相当)。このふたつキレイに絡んでトーラスが構成される。

そして人間はトポロジカルにはトーラスなのだ。口から肛門までは実は外部。つまりドーナツの穴と言うわけ。その肉体は土のチリから構成された。その肉体を活かすのは霊。果たして霊がどこにあるのか?ソロモンはこう言っている:

あなたは、胎の中で風(霊)の道を知らない・・・Eccl 11:4

ここは口語訳では

あなたは、身ごもった女の胎の中で、どうして霊が骨にはいるかを知らない。

とあるが、写本の違いによるようだ(霊は物質に閉じ込められることはないから、骨の中にある(限局)というわけでない)。

私の著書の中で、霊と魂の場が存在することを指摘した。それはちょうど地球の磁力線のようなものであり、地球はこの磁力線によって太陽からの有害物質を遮断されて、守られている。この磁力線はトーラス。

私たちはうちに神を宿し、神の霊が私たちの身体の包み、守っているのだ。私たちが醸すいわゆるオーラはこの霊と魂の場の反映である。魂のうちにある要塞(傷・恨み・苦々しい思い・嫉妬・妬み、etc.)があると内なる神の霊のエネルギーの流れが阻害される。この霊のエネルギー流れの場を、磁力線にならって、霊力線と言っても良いかもしれない。魂のそれを魂力線と言えば、霊力線が魂力線によって乱されてしまうのだ。ゆえに信が発揮されるためには霊と魂の分離が必要となる。これは神の言葉(ロゴス)による(Heb 4:12)。

私たちの大脳は魂の働きと同期する。特に大脳とマインドの関係が重要であることは著書でも指摘した。マインドのパワーは神が保証している。マインドのトランスフォーメーションと共に大脳のニューロンネットワークやシナプスでの化学伝達物質などの働きも変化しているのだ。上のtoxic thoughts(毒性思考)などは明らかに大脳を損傷する。マインドが整えば、大脳生理も整い、感情、意志も整えられる。すると魂力線がキレイに流れるようになり、それは霊力線と絡んだり、その流れを阻害したりしない。要するに霊と魂の関わりが創造主の意図どおりになるのだ。すなわち魂は自律的に勝手に作動するのではなく、霊に即して、霊からの情報を受けて機能する。それはすなわち神の思考を受信することであり、知性はそれを言語や映像にして理解する。すると感情と意志もそれに従う。その結果が肉体を通して表現されるのだ。こうして神は肉において現れる。これが今週のメッセで語ったこと。

対して、マインドが悪霊の思考や言葉を受信すれば、罪定めや自責感などのネガティブな影響を受け、感情も暗くまた抑うつに閉じ込められる。すると内なる神の臨在はかき消され、霊力線も消失し、醸すオーラも暗いものとなる。うつ病の人は表情を見ればすぐに分かるが、それは彼らの発するオーラによるのだ。簡単に言えば、彼らの魂が強すぎるわけ。霊を圧迫してしまうのだ。また肉体の症状に囚われる人も、それによって魂と霊を圧迫する。魂と肉体を主体に生きる様を肉(flesh)と呼ぶことは何度も指摘しているが、まことに肉の思いは死であり、神に敵対している(Rom 8:6-7)。神に敵対するのだから、祈りが叶うはずがない。ゆえにわれわれは自分の魂を救おうとすべきではない。救おうとすれば失う。これは肉体のいのちも同じ。癒しがしばしば神を賛美し、神の臨在に満たされて、自己を忘れた時になされることは実に興味深いことである。

かくして、霊と魂がちょうどトーラスのメリディアンとロンジチュードのように互いにキレイに絡むとき、私たちの霊と魂の場はエネルギーの流れの美しいトーラスを形成する。この時、神の声を明確に聞く(受信)ことができる。魂は霊に服し、霊の領域の情報を受信する。決して身体の五感によって影響される魂が主役ではない。イエスはこのように霊が主役であり、魂と肉体は霊に服している生き方を体現されたのだ。そしてそのような人間が何をなし得るかのデモンストレーションをされた。霊の領域のサブスタンスをこの物理的時空間に現出させること。つまりフェイスのパワーを示された。

この意味で、私の本体は肉体や魂ではなく、霊であるべきなのだ。つまり私は神である。真の私である霊がアクティヴに生きるとき、そのバイブレーションがヴィヴィッドに魂に反映される。神が私たちの魂と肉体において現れるのだ。その霊の場が新創造であるエクレシア。つまりエクレシアとは人を通して現出される神と言える(注)。これが敬虔の奥義。敬虔と訳された単語はeusebeia。ただし、注意して欲しいのは、ローカルチャーチのウイットネス・リーは、神性と人性が混ざり合って(mingling)、存在論的に人が神になる、とする。すなわち、教会とは神人(God-man)であると言うのだが、人が神になれるわけがない。私たちの肉体と魂の領域と霊の領域には明確な一線があることをあえて指摘しておく。

美しいトーラスの追求。それはすなわち五感からの離脱。シックスセンスであるフェイスの覚醒によるのだ!

【注】エペソ1章23節は邦語訳では「教会とはキリストが満ちている」となる。口語訳では「この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない」となり、まだ原語に近い。元々はpleroma、で充満(岩波訳)と言える。つまり、教会はキリストの充満だというわけ。教会なる訳語はあまり好きではないので、言い直すと、エクレシアはキリストの充満。は!?エクレシアって何?キリストだ!あえて霊の場としたが、それは人にあって現出された神そのもの(1Tim 3:16)。神の霊のバイブレーションそのものがエクレシアなのだ。

 

電磁場と霊魂の場

著書にも書いたが、今日電波の存在を疑う者は誰もいない。見えなくとも確かに存在する。それは物理的サブスタンス。人類はそれをマックスウェルの方程式に従ってコントロールできる。五感に感知できない電磁場のバイブレーションを音声や映像として五感の領域に現出させることができる。

同じように、霊と魂の場が存在する。いわゆるオーラとか気とか気配とか言われるパラサイコロジーの現象はこの霊と魂の場のバイブレーションである。その霊的領域と魂の接点がマインドである。私が癒しを受けた状況をよくよく反芻してみると、マインドに映像や言葉がフッと現れ、それをとらえて言語化するとき、身体に現象が現れるというプロセスになる。それは実に明瞭にマインドの中にインプレッションを刻む。

今回のメッセでカイロスとクロノスのことをシェアしたが、神のワザはすべてカイロスにおいてなされる。それは神のシーズンであり、神の時、すなわちNOWである。信仰はすべてNOW。希望と信仰を混同するむきがよくある。癒されないのは信仰がないとでも言うのか!と憤る人々は、これを勘違いしている。神はいつか癒して下さるだろう、は信仰ではない!それは希望。信仰はクロノスの現象ではなく、つまり五感の領域のものではなく、カイロスのNOWにおける現象だ。すでに得た。これが信仰。症状があろうが、必要が具体的に満たされていなくとも、それはある。NOWだ!神はI AM!このNOWの領域にタッチすること、これがフェイス。

しかもそれは実に簡単。スマホをいじるのと同じこと。スマホをいじるのに、信じます、信じます、信じます、と念じながらいじる人は誰もいない。操作の手順を間違わなければ良いのだ。簡単なこと。癒しも同じ。それは私たちのアイデンティティーポジションアビリティインヘリタンスに覚醒するとき、実に自然に経験できる。霊と魂の場におけるバイブレーションに共振し、そのサブスタンスを受信できるか、否か。いのちの成長の度合いとか、人格が云々とか、経験があるとか、聖書の解き明かしができるとか、そんなこととは一切関係ない。スマホも別に説明書など不要。それと同じ。ただひとつ言っておけば、「信仰」とか「信じる」という単語を日本語で理解してはならない。それはシックスセンス。まったく新しい領域の経験なのだ!

 

マインドのフィールド(場)

私の新著に書いたと同じことを語っている。

生と死の狭間

昨日、親戚筋の葬儀があった。今年に入って二件目。家族葬だったが、人形作家の与勇輝氏も来てくださった。仏教式で延々とお経が響く中、改めて生と死の狭間を考えたところだ。数日前までは意識朦朧としつつも生きていた。が、今や蝋人形のように横たわっている。この境目って、どこにあるのだろうか?

元々肉体は物質に過ぎない。が、この物質を用いて「私」が生きている。神の意志を表現するのもこの物質。霊と物質の間に魂が介在し、霊の感覚を言語化し、それを表現する。大脳は特に魂とシンクロして機能する。大脳のどこに、どのようにして「私」が存在しているのか。ペンローズなどはニューロンの中の微小管における量子力学的現象としている。すると自由意思なども量子力学的ゆらぎによることになる。つまり偶然的なもの。

現在、カオスの理論によると偶然と必然を区別することはできないのだ。これは前に再建主義者との対話でも指摘した。いわゆるカルバン主義とアルミニウス主義の対立がナンセンスであると。極私的には、魂あるいは意識の問題は物理的時空間の現象としては解明されないと確信している。それは霊的領域と物理的時空間の狭間に存在するからだ。サイエンスは未だに五感によって把握される世界のモデル構築に過ぎない。神や霊の存在を否定も肯定もしていない。意識はようやくサイエンスの対象となり始めた。が、サイエンスが五感を頼りとする限り意識を意識が理解することはできないだろう。鍵はやはり聖書にあるのだ。

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる魂となった。-Gen 2:7

この命は複数形。つまり土から肉体を粘土をこねるように構成し、命の息(neshâmâh:霊)を吹き込むと、肉体と霊との相互作用により魂が生じたのだ。魂は霊と物質の狭間に生きている、特にマインドは霊と物理的時空間の接点だ。結局、人は体の命(bios)、魂の命(nephesh)、霊の命(neshâmâh)を持つ存在とされた。私はこの霊と魂は「場」を構成していると考えている。素粒子もそれぞれの「場」の振動あるいは波動として定義されるが、霊と魂も「場」を有していて、その波動がわれわれの実際的に経験する霊と魂の現象であろうと。これがいわゆるオーラを発する源だ。イエスもしばしば霊によって人々のマインドを読み取った。「場」が見えるのである。霊の見極めの賜物も同じ。

特に霊の「場」の事象を把握して言葉(レーマ)として発する時、その「場」はこの物理的時空間に実体化される。これはニューエイジも「思考物質化の法則」として知っている。繰り返すがヘブル11章の信仰には定冠詞がなく、その定義はクリスチャン信仰だけではなく、一般的な法則なのだ。われわれは十字架の贖いの上にあって聖霊の導きにより信仰を使う。正確には信仰の法則と言ったほうが良いかもしれない(Rom 3:27)。このコツが開かれると、いずれ死者も生きることを見るであろう。なぜ?イエスがそう命じられたからだ。

病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。-Matt 10:8

これは十二弟子限定というむきがあるが、マタイの最後にはこうある:

イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」-Matt 28:18-20

ここの「守る」も日本語で理解してはならない。いわゆる校則を守るとか、道路標識を守るの意味だけではない。Strongによれば、逃れることがないように見張ること、とある。つまりイエスの命じたことをすべて取りこぼすなという意味なのだ。Are U with me? われわれのマインドがトランスフォーメーションされて、イエスのマインドが完全に私の魂の「場」に現れるようになれば、死者は生き返る。いわゆるキリスト教が絶滅危惧種となりつつあるのは、デュナミスの現れが欠如しているからだ。改めて

神の国は言葉(ロゴス)にではなく、力(デュナミス)のうちにある。-1Cor 4:20

 

魂の場と霊の場

ポンコツになったシュワちゃんの『ターミネーター:新起動(GENISIS)』を観てきた。なかなか終末論的で面白い。中でもジョンがロボット化しており、しかもMRIの磁力線により、粉末と化してしまう場面が興味深い。

CERNの実験についてホーキングが宇宙を破壊する可能性があると警告を鳴らしていることは先のビデオで紹介した。例のヒッグス粒子が消失すると、質量を維持できなくなって、物質自体が崩壊してしまうのだ。そのヒッグス粒子はヒッグス場の波動である。・・・といっても、私は電磁場理論(電磁場の波が光粒子)と相対性理論と量子力学(電子の場)くらいならばフォローできるが、チャームとかアップとかトップ・・・とかになると皆目?だが。

さて、私たちは目の前の机とか、家とか、木々とか、地面とか、こういったものは実に確実なもの、不変なもの、絶対に壊れないもの、永遠のもの、と思っている。まことに「国破れて山河あり」、これがわれわれのマインドにおけるリアリティーだ。と・こ・ろ・が・・・・質量自体が失われることになると、世界は瞬時に崩壊する。多分、ホーキングが心配しているのはこのことだろう。かくしてわれわれの目に見える世界は仮の姿と分かるのだ。聖書はこう啓示している。

 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉(レーマ)によってフレーム化され(原語)、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。-Heb 11:3

神のレーマ、言葉、つまり波動なのだ。神の波動がこの物質界をフレーム化している。そして言葉によって保っておられる(Heb 1:3)。ちょうど電磁場の振動が電波であり、それがTVやスマホの中にフレーム化されるのと同様。電波は映像にも音にも熱にもなれる。それは電磁場の波動なのだ。この空中にはあらゆる情報が飛び交っている。それを実体化するのが電子機器。素粒子のひとつひとつにも場が定義されている。その場の波動が粒子であり、場がフレーム化されたものと言える。そしてその場は10数種類あるのだが、互いに相互作用をしている。かくして世界は波動と言える。私たちはその波動のあり方をリアリティーと思っているのだ。が、リアリティーは神のレーマ、すなわち神の場における波動である。

私たちの魂と霊も固有の場を有している。人と人が接したとき、なぜか反発を覚えたり、逆に親しみを覚えたりする。緊張感を生じるときや、安心感を覚えるときがある。なぜか?個人の場が相互作用しているのだ。分裂病の患者さんなどはプレコックス感と言われる独特の雰囲気を醸している。まあ、スピ系的に言えば、オーラだ。それぞれの人にはオーラがある。特にマインドにおいてある種の波が起こるとき、それに囚われると、時には不安や緊張、時には思いから発展して思想や信条としてフレーム化される。これが神のみ言葉、つまり神の場と反発するとき、要塞となる。私はこれを霊-感情観念複合体と呼んでいる。敵は私たちのマインドにさざ波を起こすのだ。それを流してしまえば良いが、それがマインドに粘着し、固着するとシコリとして自由ないのちの流れを阻害する。

自分のマインドなどを大切にすることは愚かであると知るべきだ。それは所詮、これまでの人生経験から条件づけされた価値観や世界モデルに過ぎない。それがプライドの根拠となるとき、さらにややこしくなる。哲学や思想、あるいは芸術家などはしばしばその自分の何かを主張したがる傾向が強い。彼らと議論することはほとんど不毛であるし、なによりも疲れる、よって私はある程度までは関わるが、あとはご勝手に、となるわけ。

言いたいことは何か、真理は御言葉であると。私たちのマインドが御言葉によってトランスフォームされるとき、私の魂と霊の場が神の場と調和する。この時、私の内側に展開する事実は神の場の波動となる。完全に神とひとつになれる経験だ。私たちの交わりも思想や価値観や感性とかいったものを"糊"にしているのであれば、その関係はいずれ容易に崩壊する。カネ、もとい、"糊"の切れ目が縁の切れ目。ヒッグス粒子の切れ目は世界の崩壊。私たちの"糊"はただキリスト、そして御言葉のみ。目に見えるものはすべてフェイクである。

目に見えない世界での交わりがまずあってこその、目に見える交わりとなるのだ。その目に見えないサブスタンスを実体化するのが私たちの信仰。それは御言葉の解き明かしでもないし、ましてや自分の御言葉の理解の開陳でもない。NHKの電波を捉えたらTBSが映ることなどないのだ。お互いの信仰を尊重し合おうなどは無知の極み。NHKがフレーム化されるならば、みなが一様にNHKの番組を見ることができる。

要するに問題は、あなたはどのチャネルにチューニングにしていますか?

 

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